現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。

実に70年もの間プロ野球を内外から見続け、そして戦い続けてきた“球界の生き字引”の眼力は92歳になっても衰えず、今もなお球界を唯一無二の野球観で批評し続けている。

“球界の最長老”の球歴をつぶさに追い、ともに球界を生きたレジェンドたちの証言から広岡達朗という男の正体に迫った、ノンフィクション作家・松永多佳倫氏の著書『92歳、広岡達朗の正体』から、一部抜粋・再編集して紹介する。

「“理論を忘れる練習”に入る段階」

1985年2月、かすかに吹き込んでくる風がほんのりと春を匂わせるなか、「カーン、カーン」と鋭い打球音が乾いた空気を切り裂くように響きわたる。グラウンドにはブルーのユニフォームに身を包んだ男たちが声を出してキビキビと練習をしている。

2年ぶりのペナント奪回に向け、西武ライオンズが高知県春野市の春野球場にて春季キャンプを張って躍動している。

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監督の広岡達朗はグラウンドに立ったまま、凛とした佇まいで鋭い目線を周囲に投げかけていた。広岡は、まさに不退転の覚悟でこのキャンプに取り組んでいる。

この年からバッティングコーチとして、70年代前半の阪急ブレーブスに不動の四番打者として君臨した長池徳二を招聘。プロ入り4年目の秋山幸二を、なんとしても一人前のホームランバッターとして育てるためだ。

長池と秋山は、二人三脚で泥だらけになって練習を重ねた。あまりの猛練習ぶりに広岡が「無理しすぎるなよ」と声をかけると、「若いうちにやらないとダメなんで。鉄は熱いうちに打て、ですから」と長池はほとばしる汗を垂らしながら答える。

「よしわかった、やれやれ!」

自分の目に狂いはなかった――。広岡は、この熱血指導に長池招聘の成功を確信した。

秋山にインコース打ちをマスターさせるため、長池の試行錯誤は続いた。一生懸命練習すればある程度のレベルまで到達できる、というのはアマチュアレベルの考え方。プロは、そんな“ある程度”の壁を突き破ってこそ一人前。だが秋山は、その分厚く高い壁にぶち当たってもがき喘いでいた。

第2クールの終盤、くたびれた様子の長池が広岡に相談があるとやって来た。

「(秋山が)うまくならんのです。どうしたらいいですか…」

長池の顔を見ると疲弊し切っている。ノイローゼ寸前だ。
広岡は、少し間を置いてからゆっくり諭すように言う。

「それはな、教えすぎだ」
「教えすぎ…?」
「そろそろ“理論を忘れる練習”に入る段階なんだよ」

秋山幸二を“覚醒”させた日本刀での練習

広岡は、すぐさま宿舎『桂松閣』の庭に、濡れた藁とあらかじめ用意していた日本刀を持って来させた。

「この日本刀で藁を真横に切ってみろ。まずはやってみろ」

長池は言われるとおりに日本刀を手にし、力を込めて藁に振り下ろすが…斬れない。

「弱い左手に、強い右手を合わせて斬るんだ」

「ガシッ」。長池は広岡の言葉のとおりに試すが、藁に食い込むだけで斬れない。何度目一杯振っても、藁は斬れない。

「そうじゃない、こうだ。そう、その構えだ。いいか、次は藁を斬ることだけに集中しろ、手元のことは考えるな」

広岡が叫ぶと、長池は鋭く一直線に日本刀を振り下ろした。一瞬にして藁が斬れた。

「わかったか。今は藁を斬ることだけに集中して日本刀を振っただろ。バッティングも一緒だ。手はこうして足はこうして…と理屈ばっかり考えていて誰がモノになるんだ。理論がわかれば打てると思ったら大間違い。そこにボールが来たから無心でバーンと打てるようになるのが本物なんだ」

長池は、憑き物が落ちたような顔になった。

「よし、秋山を呼べ」。早速秋山を庭に呼び寄せ、広岡は長池に日本刀を渡した。

「おい秋山、バッティングコーチがやってみせるのをしっかり見ていろ」

長池が日本刀を両手で握りしめようとした瞬間、広岡に近づき「監督、先にやってみていただけませんか」と耳元で囁いた。

「よしわかった、見とけ」

広岡は日本刀を持った刹那から一気に集中し、電光石火の速さで藁を真っ二つに斬った。

「すげえ」。秋山は感嘆する。

「長池、あとは任せたぞ」。広岡は2人を残して宿舎の中に入っていった。率先垂範。広岡が指導者として終生持ち続けている矜持だ。

そして数日後、フリーバッティングの時間になると球場の場外にガンガン打球が飛び込むシーンが見られるようになった。ケージには秋山幸二がいる。遂に、覚醒したのだ。

こうしてひとりの男が開花し、90年代初頭“メジャーに最も近い野手”として日本球界を代表するプレーヤーに育った。

辛口御意見番としての広岡・92歳

広岡達朗、92歳。なぜ今、この男なのか――。

1954年にプロ入りしてから、実に70年もの間日本プロ野球界を見てきた“球界の最長老”だ。現在も球界への提言を続け、ネット上では広岡の発言がことあるごとに耳目を集め“バズって”いる。

誰も批判できないような球界の大御所であっても、広岡にかかれば忖度なしにクソミソにコキ下ろす。それが痛快だという声が巷から聞こえるが、広岡は別に意識してやっているわけではない。

「WBCで日本が優勝すると皆すぐに浮かれるが、そもそもWBCは平等なのか。アメリカが本気で一流選手を集めて出場したら、日本なんかイチコロ。サッカーのW杯と違って真の世界一とは言えないことを、なぜ評論家は誰も指摘しない。気づかないはずがなかろう」

広岡は優勝に水を差すつもりは毛頭ない。あくまでも物事の道理に沿って“正論”を言っているだけに過ぎない。忖度なしの本質を突いた正論は、正直、小うるさいなと思わせてしまう面もある。でもそれを誰も言わないからこそ、92歳の広岡の発言が今も注目を集めるのだ。

こうして昨今はどうしても辛口御意見番としてのイメージが先立つが、広岡が日本プロ野球史に残した偉大な功績が3つある。

広岡が残した3つの偉大な功績

まず、両リーグで監督を務め、チームを日本一に導いたのは三原修、水原茂、広岡達朗の3人しかいない。なかでも、セパでBクラス常連の弱小球団の監督を引き受け、ともに2年半以内に優勝させたのは、後にも先にも広岡ただひとりだ。

そして、54年に巨人へ入団し、1年目に残した打率三割一分四厘は、2020年にDeNAの牧秀悟に抜かれるまで66年間大卒ルーキーの最高打率を誇っていた。13年間巨人一筋、V9初期の球界を代表するショートとして、華麗なプレーでファンを魅了した。

特筆すべきは3つ目だ。

広岡は監督時代に指導した選手のなかから、後の監督経験者を16人も輩出している(田淵幸一、東尾修、森繁和、石毛宏典、渡辺久信、工藤公康、辻発彦、秋山幸二、伊東勤、田辺徳雄、大久保博元、若松勉、大矢明彦、尾花髙夫、田尾安志、マニエル)。

これは、史上空前のV9を成し遂げた川上哲治、知将・野村克也、闘将・星野仙一でもなし得なかった数字だ。

監督にとってもっとも重要な責務は、チームを勝利に導くために選手を育てていくことだろう。これはチームを、ひいては野球界を次世代に繫いでいくのと同義でもある。その観点から言うと、広岡は指導者の責務を誰よりも果たしたことになる。

兎にも角にも、広岡は球界に多くの人を残した。

広岡監督が多くの試合を見つめた神宮球場
広岡監督が多くの試合を見つめた神宮球場

監督として、70年代に史上最弱球団と揶揄されたヤクルトスワローズに初の日本一の栄冠をもたらした。80年代には西武ライオンズ黄金期の礎を作り上げた。これらは紛れもなく快挙であり、広岡の勲章だ。広岡がこの時期に実践した戦術、指導法、選手管理の在り方は、間違いなく日本プロ野球界に転換期をもたらした。

ただ残念なことに、広岡が今の球界に多大な影響を与えたことは市井にあまり知られていない。

また、60、70年代の日本プロ野球界は“勝てば官軍”といった具合なのか、ルールを無視したサイン盗みが横行した。三原修、川上哲治、野村克也、上田利治、古葉竹識と稀代の名将たちが、手を変え品を変えてサイン盗みに勤しむ時代があった。

そんな時代においても広岡は、それらを端から見て憤慨していた。

勝つために手段を選ばないとはどういうことか。男子たるもの、勝負において卑怯な真似をして勝つことをなんとも思わないのか。恥を知れ。

広岡は誓った。自分だけは、絶対に卑劣な行為に手を染めず、正々堂々戦ってやる。その後、自分の誓いを一度も破らずに結果を残してきた。だからこそ、この令和の時代においても広岡の声は、皆の心に鋭く届くのだ。

だが、広岡はあまりにも実直かつ妥協を許さぬ姿勢によって“球界の嫌われ者”として名を轟かせたのも事実だ。

現役時代は“野球の神様”と呼ばれた川上哲治とも衝突した。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から選手・フロントとも衝突した。広岡からすれば、すべては勝利のためだ。

そして、日本の野球界に多くの人を残し、発展させてきた。

広岡達朗という男の大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か…。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。

『92歳、広岡達朗の正体』(扶桑社)
松永 多佳倫
松永 多佳倫

1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。著書に、『まかちょーけ 興南甲子園春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園-僕たちは文武両道で東大を目指す-』、映画化にもなった『沖縄を変えた男―栽弘義 高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園-僕たちは野球も学業も頂点を目指す-』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『日本で最も暑い夏 半世紀の時を超え、二松学舎悲願の甲子園へ』(竹書房)、)『永遠の一球-甲子園優勝投手のその後-』(河出書房新社)、『沖縄のおさんぽ』(KADOKAWA)、などがある。