1994年5月1日、イタリア・イモラサーキットで行われたF1サンマリノGP決勝。

レース中のクラッシュ事故で、不世出のF1ドライバー、アイルトン・セナ(享年34)が命を落とした。

イモラサーキットにあるセナの銅像(2003年撮影)
イモラサーキットにあるセナの銅像(2003年撮影)
この記事の画像(28枚)

【A Latchkey セナ没30年追悼ver.はこちら】

世界中が悲しみに包まれたあの日から30年。貴重な写真の数々と共に、彼の人生と知られざる真実が、今ここに浮かび上がる。

語り手は、日本が誇るF1フォトグラファー、金子博氏。F3時代からセナの姿をつぶさに追い続けたレジェンドだ。

日本のF1ブームの立役者だった
日本のF1ブームの立役者だった

速さと強さの根底にあったものとは?人間・セナの魅力と苦悩とは?各時代を切り取った珠玉のフォトグラフをもとに、金子氏が語り尽くす。

第一印象は“生意気なガキ”

「ほとんどの場面が記憶にあるから、思い出がよみがえってきちゃって、写真の整理が進まないんですよね」

そう苦笑しながら金子氏が最初に披露してくれたのは、海外の墓地の写真だった。

今も命日には献花が絶えない(2003年撮影)
今も命日には献花が絶えない(2003年撮影)

「今から20年前くらいのものですけど、サンパウロの墓地の写真です。この左側のがセナさんのお墓ですね。なんか、普通でしょ?でも、僕はそれがいいなって思ったんです」

墓標には「AYRTON SENNA DA SILVA」と刻まれている
墓標には「AYRTON SENNA DA SILVA」と刻まれている

「世界的なスターのお墓ですから、厳重に警備されていてもおかしくないんですが、ご覧の通り普通で、誰でも行けるところにありましたから。これを見て安心したというか、『良かった』って思いましたね」

素朴なお墓に、在りし日のセナの面影を重ね合わせ、思い出に浸る金子氏。

セナとの出会いは1983年、F3のレースだったという。当時のセナは23歳。

1983年 トップを走るセナ 追走がブランドル
1983年 トップを走るセナ 追走がブランドル

「出会った頃、彼はまだ『セナ・ダシルバ』という名前で、イギリスF3選手権を戦っていました。この写真は、今はイギリスで解説者をしているマーティン・ブランドルと争っているものですね(編集注:後にブランドルもF1ドライバーに)。当時、セナさんとブランドルはライバルで、バチバチにやりあっていましたよ」

当時から、レース関係者の間で、セナの才能は高く評価されていた。だが、金子氏の第一印象は、決して良いものではなかったと言う。

当時からブラジル国旗がモチーフのヘルメット
当時からブラジル国旗がモチーフのヘルメット

「初対面の時にいきなり、『俺は絶対にチャンピンになるから、今のうちに俺の写真を撮っておけ!』って言われて(笑)」

無論、チャンピオンとはF3のではなく、F1の世界王者のこと。金子氏はその大口に、呆気にとられた。

セナの思い出を語る金子博氏
セナの思い出を語る金子博氏

「F1を撮りに行ったら、前座レースのF3に乗っている名もなきドライバーから、そんなこと言われたわけですからね。『クソ生意気なガキ!』って思いましたよ(笑)。ちなみにその時、セナさんはハガキにサインをくれたというか、勝手に書いたんですけど、それ、なくしちゃったんですよね。もったいないことしたなぁ(笑)。F1に行く前のサインなんて、なかなかないですからね」

一時は「このクソガキ!」とまで思ったと言うが、一方で金子氏は、セナから並外れた情熱や意気込みを感じ取っていた。

レースに生涯 命を懸けた
レースに生涯 命を懸けた

「F3時代から、レースに全てを懸けていました。F1に出ることが目的ではなく、本当にそこでチャンピオンになることしか考えていなかったですから。要するに彼は、ヨーロッパの人たちをやっつけに来ていたんですよ。F1の本流たるヨーロッパの人たちをやっつけるために、ブラジルからやって来た。だから、文字通り真剣だった。他のみんなが竹刀でやっているところに本物の刀を持って来て、それで勝負しちゃうみたいな。だから、(周囲とは)ぜんぜん心持ちが違いましたよね」

1984年F1デビュー 笑顔なき優勝

翌1984年、セナはF2を飛び越え、F1デビューを果たす。チームはイギリスのトールマン(後のベネトン)だった。

1984年 F1へステップアップ 右の鉢巻男性が津川氏
1984年 F1へステップアップ 右の鉢巻男性が津川氏

「これがその頃の写真ですね。セナさんの後ろに映っているのは、当時、トールマンのメカニックだった津川哲夫さん(現フジテレビNEXTのF1解説者)ですね。津川さんもこの頃は、結構苦労してたんだよなぁ。日本人だから、労働許可証が出ないとか(笑)」

24歳 まだあどけなさが残るセナ
24歳 まだあどけなさが残るセナ

さらに、金子氏は当時のセナのポジションを物語る、貴重な1枚もフィルムに収めている。

「(ドイツ)ニュルブルクリンクで行われたグループC(編集注:自動車レースのカテゴリー)の写真ですが、実はセナさんが乗っているんですよ」

貴重な1枚 Cカーに乗るセナ
貴重な1枚 Cカーに乗るセナ

「きっと、アルバイトだったと思うんですよね。金を稼ぐための。また面白いのが、マシンにドライバーの名前が載っているんですけど、セナさんが一番下なの。上にペスカロロとヨハンソンの名前があって、セナさんは一番下。アルバイトだから(笑)」

F1デビューイヤーで非凡な活躍を見せる
F1デビューイヤーで非凡な活躍を見せる

だが、この年の序盤をもって、セナは“アルバイト”を卒業することになる。F1で計3度の表彰台に立つ活躍を見せ、翌年、イギリスの名門ロータスに移籍。そこで初優勝を果たすなど、トップドライバーの仲間入りを果たしたのだ。

今でもファンが多い「JPSロータス・ルノー」
今でもファンが多い「JPSロータス・ルノー」

「これが1985年のロータス時代の写真ですが、セナさんもマシンもかっこいいですよね(笑)。『JPS』は、個人的には歴史上1番かっこいいマークだっだなぁ。ただのタバコのメーカーなんだけど(笑)」

アーカイブには、こんな“お宝写真”もあった。

1986年 2年目ながら実力を認められた
1986年 2年目ながら実力を認められた

セナとアラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、そしてブラジルの先輩、ネルソン・ピケ。F1史に名を刻む名ドライバー4人が一堂に会した貴重な1枚だ。当時F1の最高権威者だったバーニー・エクレストンの“鶴の一声”で実現したものだという。

「バーニーが『お前ら4人、集合!』『みんなで写真撮れ!』って言って、我々に撮らせてくれたんですよ(笑)」

往年の名車やドライバーたちを懐かしむ一方、金子氏はセナの写真を振り返るうち、「あること」に気づいたと言う。

「例えば、1985年に初優勝した時も、こういう表情なんですよ」

曰く、現役を通して、笑顔の写真がほとんどない。

1985年 ポルトガルGPで初優勝
1985年 ポルトガルGPで初優勝

「もちろん、それだけ真剣だったんでしょうけど、何かこう、常に”憂い”を帯びているというか…。当時は僕も意識していませんでしたが、こうやってゆっくり写真を振り返ると、ほとんどこういう表情なんですよね」

サーキットでは笑みを見せなかった
サーキットでは笑みを見せなかった

次回、セナの“憂い”の理由のほか、日本との特別な関係性、マクラーレン・ホンダ時代の活躍などを、珠玉の写真と共に振り返る。

【金子博プロフィール】
1953年、東京生まれ。1976年からフリーランスとしてレースの撮影を開始。以降、500戦以上のF1GPを撮り続け、2011年には取材者にとって最高の栄誉である「F1永久取材パス」を授与された。

(構成:岡野嘉允 / 企画:本間学)

この記事に載せきれなかった画像を一覧でご覧いただけます。 ギャラリーページはこちら(28枚)
プライムオンライン編集部
プライムオンライン編集部

FNNプライムオンラインのオリジナル取材班が、ネットで話題になっている事象や気になる社会問題を独自の視点をまじえて取材しています。