東日本大震災で妻を亡くした男性が、震災から12年が経った、2023年から語り部として活動している。これまで震災のことを思い出すことさえ嫌だったという男性。経験を語り始めた背景には同じ境遇の人たちに伝えたい思いがあった。

震災12年目で始めた語り部

みやぎ東日本大震災津波伝承館
みやぎ東日本大震災津波伝承館
この記事の画像(14枚)

 2月、宮城県石巻市の津波伝承館で語り部を務めたのは、仙台市の会社員・岩淵正善さん(49)。去年からこの場所で語り部の活動を始めた。震災前の家族との何気ない日常、そしてあの日何があったのか、自身の言葉で語っている。

岩淵正善さん
岩淵正善さん

 震災当時は東松島市で、妻のけい子さんと小学6年生の長男、幼稚園年長の長女と4人で暮らしていた岩淵さん。震災が起こる2週間前、岩淵さん夫婦は子供たちにそれぞれプレゼントを贈っていた。長男には中学校の制服を、そして長女には小学校のランドセルを。

 子どもたちの成長を実感する瞬間。いつまでも続くと思っていた何気ない幸せに溢れた日常。しかし東日本大震災はそんな日々をいとも簡単に奪い去ってしまった。

岩淵さんの語り部の様子
岩淵さんの語り部の様子

 当時、仙台市の職場にいた岩淵さん。地震発生後、職場の同僚の車で道なき道を走り、東松島市の自宅を目指した。到着したころにはすでに真夜中になっていた。

 家族の無事を確認するため、スーツに革靴で泥だらけの街中を走りまわり、行き違う人に家族の安否を尋ねた。長男は避難所となっていた野蒜小学校の音楽室にいた。長女は通っていた幼稚園のバスで、高台にある寺へ避難していた。小さな体をさらに小さく丸めて眠る娘を見て、疲れが一気に出た。「妻は大人だから大丈夫。朝になってから探そう」

 翌朝はけたたましい消防のヘリコプターの音で目覚めた。目の前に広がっていたのは、想像を絶する惨状。岩淵さんは不安を感じながら、遺体があちこちに横たわる町の中で一心不乱にけい子さんを探した。

 すると小学校の近くでけい子さんが乗っていた車を見つけた。窓からはけい子さんの腕が見えていた。「良かった!見つけた!生きている」。しかし車に駆け寄ると、そこには冷たくなったけい子さんがいた。

右・妻のけい子さん
右・妻のけい子さん

「私はそれまで一度も出したことのないような、自分の声とは思えないような叫び声が出ました」(岩淵正善さん)

 その後10年以上過ぎても、震災のニュースから目を背けてきたという岩淵さん。震災を思い出すことで自分がどうかなってしまうのが怖かったという。ようやく自分の心と向き合う転機になったのは、2023年に伝承館から頼まれて始めた語り部だった。

「命がけで育てます」交わした妻との約束

 当時、岩淵さん家族が暮らしていた東松島市の新東名地区。地区全体で36人が亡くなったこの場所には、現在、慰霊碑が建てられていて、けい子さんの名前も刻まれている。  

東松島市新東名地区
東松島市新東名地区

 岩淵さんにとって、この場所はいわば関所のような存在になっている。近くに寄るたびに必ずこの慰霊碑に立ち寄り、けい子さんと心の中で会話しながら、今の自分の気持ちを確かめるという。「子どもたちは元気ですよ」とか、「楽しく生きています」など、けい子さんに報告するような形で、いつも手を合わせる。

 震災後、2児のシングルファーザーとなった岩淵さん。母を亡くした子供たちとどのように接すればいいか、悩んだ時期もあったという。そんな時はいつも「妻だったらどうしたかな」と心の中で問いかけた。震災から1カ月後にようやく火葬できたけい子さんの棺に、岩淵さんは決意を込めた手紙を添えた。

妻のけい子さん
妻のけい子さん

「今までありがとう。あなたの代わりに私が命がけで子どもを育てます」

 妻と交わした約束。震災以降、岩淵さんの心は常に子どもたちから離れることはなかったという。時には厳しい父として、時にはともにふざけあう兄のような存在として、子どもたちと向き合ってきた。成人した2人の子どもとは、今でも一緒にカフェに行く仲。妻と子どもを愛しているという思いが、岩淵さんの心の支えになっていた。

岩淵さんが長女に作ったキャラ弁
岩淵さんが長女に作ったキャラ弁

妻を奪った海 13年の心の変化

 岩淵さんは2月23日、東松島市の野蒜海岸を訪れた。バーベキューをして楽しむなど家族との思い出が詰まった思い出の場所だ。けれども震災以降は黒い海や津波を連想してしまい、近寄ることができず、足が遠ざかっていた。

東松島市・野蒜海岸
東松島市・野蒜海岸

 最愛の妻を亡くしたあの日から13年。幼かった子供たちも成人し、岩淵さんの心境にもいつしか変化が生まれていた。岩淵さんは、「震災で妻を亡くしましたが、一生懸命子育てをして、子供を育て上げたという達成感がある。それが私の生きる自信になっています」と話す。あれほど避けてきた海を見ても、今は不安な気持ちに襲われることはないという。

 若い頃にやっていたサーフィンも再開した。ぷかぷかと海に浮かびながら、空を見上げた。「そういえば海が好きだったな」そんな穏やかな気持ちを思い出したという。

「勇気や希望になれたら」伝えたい想い

 妻との約束を果たし、語り部として一歩を踏み出した岩淵さん。岩淵さんにとって語り部とは、変化していく自分の気持ちに気づく場になっているという。

 新たな目標も見つかった。それは子どもたちの前で語り部をすることだ。妻の死から学んだ「命があることはとても貴重」ということ。ごく当たり前のことかもしれないが、岩淵さんが語ることでその言葉の重みは何十倍にもなって、聞き手の心に響く。

 語ることで自分の気持ちと向き合い、前向きになれたと話す岩淵さん。一方で、かつての自分と同じ心境の人が今もいると感じている。「東日本大震災から13年経ちますが、今現在も苦しんでいる方々がいると思います。自分の体験を話すことにより、皆さんが楽な気持ちで日々過ごせるような勇気や希望やきっかけになればいいなと思う。」そう話す岩淵さんの顔には、誰かの背中を押してあげたいという優しさがにじんでいた。

 経験を語ることで、苦しさが和らぐこともあると知ってもらいたい。そう思い岩淵さんは、きょうも語り続けている。

(仙台放送)

仙台放送
仙台放送

宮城の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。