30年以内の発生確率が70%から80%とされる、南海トラフ地震。最悪の場合、近畿では10万人近い死者が出ると想定されている。

とりわけ、最速で地震からわずか3分で津波が到達するとされている和歌山県南部の地域では、人々が「命の危機」と隣り合わせの生活を送っているといっても過言ではない。

「南海トラフ地震で命を落とさないとなると、全員が高台に移転する。それしかない」
町長がそう危機感をあらわにするのは、本州最南端の町、串本町。
人口約1万5000人の小さな町の現実と、究極の津波対策「高台移転」の最前線に迫った。

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突き付けられる厳しい現実

本州最南端の町、串本町。
紀伊半島の先端に位置するこの町は、古くから黒潮が運ぶ海の幸に支えられてきた。
また“串本ブルー“と称えられる透明度の高い水と、高緯度に位置するにもかかわらず豊富に見られるサンゴをはじめとする熱帯性の生き物たちが、多くのダイバーを惹きつけてきた。
まさに「海とは切っても切り離せない町」だ。

しかし、その豊かな海はいつか牙をむく。
2011年の東日本大震災で、串本の人々は改めてそれを痛感することとなった。
国が翌年取りまとめた、発生しうる最大クラスの南海トラフ地震(南海トラフ巨大地震)による津波の「被害想定」には、「地震発生から津波高1m到達まで3分」「最大波高18m(※和歌山県発表では17m)」という衝撃的な数字が並んだ。

「もうええの。腰も痛いし、足も痛いし、よう逃げない。80歳やしね。その時はその時よ。寿命やと思っとる」
そう話してくれたのは、串本町に住む女性だ。
無理もない。

こんな試算がある。
人が避難するスピードを、十分な道路が整備されている場合には毎分30m、そのような道路が整備されていない場合には毎分21mと仮定すると、『南海トラフ巨大地震』発生から5分後に避難を開始した場合に安全な避難場所までたどり着けない人が「5915人」にのぼる。
(2015年3月時点の串本町資料より)

いわゆる「避難困難地域」の居住者数だ。
避難開始の遅れや徒歩での避難など、あえて悲観的な前提を置いているとはいえ、「そもそも生き延びられない」とされる人が行政資料上、存在しているということに、町外の人間である筆者は衝撃を受ける。

苦悩しつつも努力を重ねる住民たち

住民たちは地道な取り組みを続けている。
串本の東岸に位置する大水崎(おおみさき)地区で区長を務めていたという男性に話を聞いた。

大水崎(おおみさき)地区の元区長の男性:
自分の前の区長の時に、JRの線路を横切って山に避難するためのルートを整備しました。フェンスの合間に設けられた白い壁は、人が体当たりすると突き破ることができるんです。線路の先にある山に登る避難路は、以前は区の住民が整備していましたが、今は町がやってくれています。年に1,2回は区で避難訓練をやっています。

海と山が近く平地が海沿いに限られた紀伊半島では、沿岸をぐるっと通るJR紀勢本線が、漏れなくその平地と山地を隔てている。
自然が織りなす高台に避難するには、必ずこの鉄路を横断せねばならない。

ある若い女性は、避難訓練の際に抱いたこんな思いを聞かせてくれた。

串本町の女性:
訓練の時、いつも自分はお年寄りたちを追い抜いて山を駆け上がることになるんです。複雑な気持ちになります。でも、訓練だからそう思うのかもしれないですが、実際に起きたら必死になる。そこまで気が回らないかもしれないですね。
(Q.若い人がお年寄りを助けるというのは難しい?)
頭では助けてあげないといけないとは思いますが、私1人が支えても…。お年寄りが多いので、全員を助けることはできない。実際に揺れて津波が来た時に、ほかの人に目がいく余裕があるかどうか…

危険を冒して、一心不乱に高台を目指さねば、自分の命が危うい。
串本町の住民が晒されている危機の重さを思い知らされる、2つのエピソードであった。

行政の苦悩

住民の命を預かる行政は何を思うのか。

次に話を聞いたのは町長の田嶋勝正さん。
合併前の旧串本町長時代を含め、延べ15年あまり津波の危機と向き合ってきた田嶋町長の口からは、意外な言葉が聞かれた。

串本町 田嶋勝正町長:
まず町民の方に誤解してほしくないのは、これらの数字はあくまでも“最悪を想定したもの”であるということです。全ての南海トラフ地震が、このクラスで発生するわけでは到底ない。より発生確率の高い地震に対して、従来からの対策が機能すれば、多くの方が命を守れる可能性がある。過度の絶望はせず、必ず逃げてほしいんです

町長の指摘は正しい。
町の資料で想定されている避難困難者数は、過去数千年間発生の記録がない南海トラフ“巨大”地震においては6000人近くであるものの、より発生確率の高い三連動地震においては1340人とその数を大きく減らす(町長によると、種々の対策により現在は834人)。
三連動地震とは、東海、東南海、南海の三つの震源域における地震が連動して同時に発生するものであるが、それでも100年単位の周期で発生するレベルの南海トラフ地震の中では、最も悲観的に想定されているものだ。

また、国のワーキンググループも、被害想定の発表に以下のように付言している。

今回の被害想定に用いる地震動・津波高等については(中略)科学的知見に基づき、 南海トラフの巨大地震対策を検討する際に想定した最大クラスの地震・津波である。
(中略)この地震・津波は、次に必ず発生するというものではなく、現在の知見では発生確率を想定することは困難であるが、その発生頻度は極めて低いものである。
(中略)このような甚大な被害想定結果を目の当たりにして、ともすれば、不安感を募らせ、これまでの防災対策が無意味であるかのような風潮が出てくる可能性もあるが(中略)、しっかりとした対策を講ずれば想定される被害も大きく減少することは明らかである。

町長は続ける。

串本町 田嶋勝正町長:
現在串本町は、堤防の整備を進めています。これが数年後に完成すれば、三連動地震による津波の第一波の到達時間を、現在の16分から32分にまで後ろ倒しにすることができます。これにより、三連動地震においては理論上は避難が困難な人(避難困難者)をなくせると考えています

さらに串本町では、町民のライフジャケット購入費の2分の1の補助や、地震による倒壊で避難の妨げになりうるブロック塀の改修費の9割補助など、全国でも類を見ない対策を行ってきた。国による最悪想定によって過度に町民が悲観的となり、失われなくてもよい命が失われることは絶対に避けたいという、町長の思いがにじむ。

それでも、今この瞬間に三連動地震レベルの地震が起きれば、ましてや南海トラフ“巨大”地震が起きれば、全ての町民が命を落とさずに済むとは考えにくい。
その現実の厳しさを、田嶋町長は次のように表現した。

串本町 田嶋勝正町長:
南海トラフで(誰も)命を落とさないとなると、全員高台に移転する以外ないと思いますね

しかし、これは諦めから出る言葉ではない。
実際、町はそのような道筋を描こうとしている。

対策の拠点「町役場」を高台へ

2021年7月、串本町は海抜約50メートルの高台(通称:サンゴ台)に新たな町役場を開設した。
言うまでもなく目的は、津波対策だ。

築60年を超える従来の町役場は海のすぐ近くにあり、津波発生時は大規模な浸水被害が予想された。
対策本部等を設置して、復旧・復興に当たる拠点となり得ないことは明白だ。
そのため、町が設けた「庁舎建設検討委員会」は、東日本大震災発生の翌年、津波被害を受けない場所への新庁舎建設を答申した。

町長に、新庁舎を案内してもらった。

串本町 田嶋勝正町長:
この新庁舎は、非常用発電機や飲料水の備蓄機能を有しており、職員たちが7日間は業務を継続できるだけの備えがあります。また、マンホールが災害用トイレとなるなど、避難者や応援職員にも対応できます

目玉の1つは、対策本部設置を見込む大部屋。
普段はパーティションによって複数の部屋に分かれているこのスペースは、災害発生時一つの部屋としてぶち抜かれる。
刻々と移り変わる最新情報を映し出すことになるであろう4つのモニターを望む広大な対策本部は、町長自らが東北の被災自治体で感じた「職員たちが一堂に会することの重要性」を具現化したものだ。

さらに2025年、近畿自動車道すさみ串本道路が完成し、串本町は大阪など近畿の主要都市と高速道路で結ばれることとなる。
さらに串本ICはサンゴ台地域に設けられるため、町役場や、高速道路建設のために発生した土砂を活用して造成された平地に設置される予定の仮設住宅はIC直結となり、物資の搬送などの利便性は格段に向上する。

(Q.南海トラフ地震が今来るか5年後に来るかで状況は全く違う?)
串本町 田嶋勝正町長:
はい。5年後にはずいぶん体制が整っています。この5年はせめて(地震には)来ないでほしい。それくらいまで待っていてほしいという思いです

町長は対策への手ごたえをそのような表現で語った。

しかし、町役場の移転により行政機能の維持が担保されたとしても、沿岸地域の住民の命が危険にさらされている現状に変わりはない。
住民の命を守るための究極の施策は、前出の町長の言葉を借りれば「全員が高台に移転する」ことである。
実はこの町役場の高台移転は、その布石でもある。

「住民も高台へ」行政の狙いと町の現実

串本町は、10年ほど前から病院や消防署など町民にとってのインフラとも言うべき機能を、順次サンゴ台に移転させてきた。
町役場の移転は、その総仕上げだ。
その狙いを、町長はこう語る。

串本町 田嶋勝正町長:
まず役場が動くことで、住民を(高台に)誘導していくことになると思っています

実際サンゴ台では宅地開発が進み、子育て世帯を中心にここに新たに居を構える人も増えてきているという。

また、串本町内のもう一つの高台である「潮岬(しおのみさき)」にも、東日本大震災以降、新築住宅の姿が目立ち始めている。

4年前、経営する美容室の店舗兼住宅を建設した東口さん夫婦に話を聞いた。

夫の良さん:
奈良で働いていたのですが、結婚して子供ができて地元の串本に家を持つことにしました。実家は海に近い古座なのですが、子供もいるので津波が心配で潮岬を選びました。サンゴ台よりも多少土地が手ごろなのも魅力です。周りは我々と同世代の家族が多いです

妻のえり加さん:
潮岬の中で幼稚園(こども園)から、小学校、中学校まで揃っていて、子供を預けている時に南海トラフ地震が来ても(必ず高台にいることになるので)安心です

串本で住まいを探す際に、多くの人にとって「津波が来るかどうか」が大きな判断材料になりつつあるようだ。
ところで、海の近くの実家に今も住んでいるという親御さんと潮岬で同居、という話にはならなかったのだろうか?

夫の良さん:
話はしましたが、やはり地元を離れたくない気持ちがあるようで、一緒に潮岬に住むという選択肢はない感じです。親は津波については深く考えていない気がします。まだ若いし、仕事にも行ってるし、避難場所も近くにあるし…。
(Q.一緒に来てくれたら安心では?)
そうは思いますけど、なかなか…

津波を避けるために住む場所を変える、という選択のハードルが全ての人にとって低いわけでは決してない。
津波被害が想定される低地帯に住む人からは、それを裏付けるような言葉が聞かれた。

80代:
若かったら、津波の来ないところに引っ越すという考えもあるかもしれないけど、お父さん(夫)も亡くなってもう1人やし、もうすぐ寿命やしねえ…。この辺はみんな一人になってしまった。女の人ばっかりよ

大水崎地区の前区長:
高齢の人が高台に家を移すというのはなかなか難しいですね。あとは、(子育て世帯であっても高台に移転するかどうかは)お金の問題が大きいですよね

取材後記

一歩一歩着実に、串本は津波に強い街へと変貌している。
しかし、究極の津波対策である「住民自身の高台移転」の歩みは、まだ緒についたばかりだ。

「住民を強制力をもって高台に移転させる仕組みがあればいいなと感じるか?」

そう問う私に、町長は「そう思います」と即答した。
しかし現状の日本において、それだけ多くの住民の私有財産を制限し、居住の自由を制約することは不可能である。

延べ15年あまり南海トラフ地震の危機と向き合う田嶋町長は、住民に向けて絞り出すようにこう語った。

「行政は、最大限、復旧・復興のシステムを作り上げている。串本町の現実を理解していただいて、逃げるということを前提に考えて物事を進めてほしい」

本州最南端の町、和歌山県串本町。
南海トラフ“巨大”地震の津波は最短3分で、この町を襲う。
串本の人々の日々には、何気ない日常と懸命の努力が入り混じる。

この地に住む誰1人として、命を落としてほしくないと、心底思った。

(関西テレビ放送 「報道ランナー」メインキャスター 新実彰平)

新実彰平
新実彰平

関西テレビ アナウンサー