平成 愛媛の記憶 えひめ丸事故…遺族の思い(前編)

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【鐘の音】宇和島水産高校に響く9回の鐘の音。

毎年2月10日に行われる慰霊式で犠牲になった9人の数だけ鳴らされます。

今から18年前の2月。事故は突然の知らせでした。

ハワイ沖に漁業実習に出ていた宇和島水産高校の実習船えひめ丸が、

緊急浮上してきたアメリカの原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され沈没したのです。

当時えひめ丸には生徒や教官、乗組員あわせて35人が乗っていました。

事故の一報を受け宇和島水産高校には家族らが集まります。

テレビの映像を頼りに安否を確認する家族。

しかし生徒4人、教官2人、乗組員3人のあわせて9人が行方不明になりました。

行方不明者の家族たちはすぐに現地へ。

そこでアメリカ側に求めたのは

海底600メートルに沈んだえひめ丸の引き揚げでした。

当時のハワイでの家族会見

中田さん

「息子が乗っていたえひめ丸に何の過失があるんでしょうか。

これが揚げて頂きたいえひめ丸です。よろしくお願いします」

えひめ丸の設計図を掲げて訴えたのは

行方不明になった指導教官、中田淳さんの父、和男さん。

事故から18年、当時の思いをこう語ります。

中田和男さん

「生存か死亡か分かりませんけど、

揚げて息子に女房を会わせてあげられるんやったら、

揚げてもらうことが一番やなと思って、それだけをメインに

引き揚げだけに力を入れました」

しかし船体引き揚げには簡単には進みませんでした。

多額の費用がかかるほか、海の事故に対する考え方の違いから

アメリカ側の理解が得られなかったのです。

当時、アメリカとの交渉にあたった加戸元知事はこう振り返ります。

加戸守行元知事

「日本人は遺体を求めます。これが日本の弔意の文化。

だから船体を引き揚げて欲しい。県だけではなく国を挙げて取り組むべきことだった」

ようやくえひめ丸の引き揚げが始まったのは

事故から半年後の8月。

作業は深海600メートルに沈んだえひめ丸を、ワイヤーを使って海面近くまで引き揚げ。

そのまま、ゆっくりと浅瀬まで曳航するという危険を伴うプロジェクトでした。

当時、中田さんはえひめ丸の引き揚げを担当した作業船の船長から

あるものを受け取っていました。

船長が娘からもらったお守りのミサンガです。

中田和男さん

「私たちが頑張って必ずえひめ丸を引き揚げるから、

お父さんたちも頑張ってくださいってこのミサンガを。

娘さんが船長に、『お父さんの安全を祈っとるからこれを身につけてくれ』というのを外されて、

私に『これをもっとってくれ。必ずえひめ丸を引き揚げて帰ってくる』って言ってくださったんですよ」

息子の帰りを待ち、沖での作業を見守る中田さん家族。

そしてようやく深海からの引き揚げに成功します。

作業責任者

「何度もアクシデントがあったが成功させたい一心で引き揚げた。毎日が戦いでした」

和男さんの妻・幹枝さん

「あとは9人みんな船の中いてくれることを祈るだけです」

その後、数日かけてゆっくりと浅瀬に曳航されたえひめ丸。

事故から8ヵ月がたち、ようやくダイバーによる船内の捜索が始まりました。