“事実”より“感情”こそが影響力を持つ時代 求められるのは善き媒介者?

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  • 政治家は今も昔も発言を切り取られることは変わらない
  • 異なるのは、SNSなどによる情報発信のスピード
  • 「ポストトゥルース時代」に大切になってくるものとは・・・

政治家はなぜ発言を切り取られるのか

政治家による発言がメディアで一部を切り取られて報じられるというのは、今に始まったことではない。しかし、最近では政治の側、あるいは特定の勢力の側が「切り取り」であると非難する度合いが高くなっているようだ。

桜田義孝東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当大臣

たとえば、桜田義孝大臣のオリンピック選手の病気をめぐる発言。兵庫県明石市の泉房穂市長の辞任に至った録音テープでの暴言。前者の場合は産経新聞が「『がっかり』だけではなかった 桜田五輪相発言全文」という記事を載せて一部メディアの報道は切り取りであるという論調をとり、その後意見が分かれたほか、後者の場合は泉前市長の発言後段が切られているとして、地元紙の神戸新聞が全文を掲載した。

古くは、「貧乏人は麦を食え」と報道された池田勇人大蔵大臣(当時)の発言も、「私は所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と言うのが原文であった。かつて、記者による発言の切り取りを嫌った佐藤栄作元総理がテレビに自分の声明を放映させて、新聞記者を締め出したことも有名である。

池田勇人大蔵大臣(当時)

メディアが発言を切り取る理由は、政治権力をペンの力でやり込めるためにもちうる最大限の力を発揮するためだと思われるが、これが近年のようにメディアの側が権力である、あるいは信用ならないという評判に繋がると、かえって切り取ったメディアが政治家をいじめたかのような構図ができあがる。そして実際に、政治家個人の運命を左右するのはメディアの報道のさじ加減によることが多いのも事実である。

これに対してメディアが行う反論は、権力の監視という大義名分に加えて、政治家が発言に気を付けることによって人格も陶冶され、発言も磨かれるのだから、その競争・鍛錬のプロセスにメディアは関わっているのだというものである。これは政治記者の間でしばしばやりとりされる会話だ。何がフェアで何がそうでないかについての自覚を持つ百戦錬磨の記者が、レフェリーあるいは教育係的な役割を果たしてきたことは事実だ。しかし、最近の「切り取り」批判や、報道の「政治的公平性」をめぐる政治の側からの苦情や抗議を見ていると、かつてとは打って変わった、新しい時代に入った様相を呈している。その理由について今日は考えてみたいと思う。

何がかつてと違うのか

切り取られることが新しいのではない。切り取りに怒ることが新しいのでもない。昔と今の違いを挙げれば、それはひとつに情報化し、それが拡散するスピードが速すぎるということにつきる。一人の発言が文字おこしされ、切り取られ、記事になり、ネットに掲載され、SNSで広がり、それにコメントがつき、それが記事化されるというサイクルが、現代社会では非常に速い。そのため、ゆるゆるとした民意の形成で段々と大臣の適性が明らかになっていくというようなプロセスを踏まずに、ひとつの発言をもってして「アウト」となる率が高い。昔であれば録音できなかったものが、録音できるようになり、しかも秘密に録音できるようになった。こっそり撮影することも容易だ。

そうすると、これまで政治記者の中でも百戦錬磨のプロが下してきた判断が意味を持たなくなったり、あるいは世間に逆らってまで判断しにくくなるという状況に移行する。ニュースの目利きが選んできた、何を炎上させ、何を炎上させないかという判断が介在する余地が低くなってきているのである。

辞職会見をする兵庫県明石市の泉房穂前市長

「ポスト・トゥルースの時代」

それに加えて、情報の拡散とパーソナル化が人々の反応を変えてしまった。泉前市長に対する脅迫罪での告発状を、神戸地検が受理したというニュースが先日飛び込んできたが、それはまったく暴言の被害者によるものではなくて、福岡市の一市民の男性が、第三者の自分が告訴しなければならないと考えたからだという。これこそ、現代の情報化社会と政治との関係を赤裸々に映し出す事案だ。

暴言、セクハラ、といった事例に顕著だが、まったくその当事者と会ったことのない第三者が発言し、自分事化し、何かを投影しやすくなっているのは、多くの人々がすでに気付いているだろう。昔は政治家の資質をはかるために批判が集まり、文脈を無視して発言が切り取られていたのが、政治家以外の発言にも適用されるようになり、文脈を読め、という側と、いやひどい、という側が、ときに案件によっては入れ替わって争いあう。

これを、ポスト・トゥルースの時代と呼ぶ。何が事実かというファクトに基づいた議論ではなくて、感情こそが影響力を持つ時代のことである。そんな時代には、人びとがどう感じたかをすくいあげ、うまく過不足なく表現する、善人と悪人が両方とも跋扈することになる。人びとの感情には愛情や正義感もあれば、エログロを好む偏執的なところもあれば、憎しみや嫉妬といったネガティブなものもある。それをまるで媒介者のように表現できるものが、受け入れられ、フォロワーシップが出てくるのである。

つまり、そこにおいて善い結果がもたらされるか、悪い結果がもたらされるかは、かなりの程度カギとなる媒介者の属人的な要素によって左右されるということである。時代がそう変化した以上は、メディアもインフルエンサーも、善き媒介者を目指すしかない。

何に気を付けるべきか

感情の政治はなくならない。したがって、最後にSNSやその他メディアで発信する人々はどのようなことに気を使うべきかということを簡単に書いておきたい。

まずは、自分が知らない相手について論評するときにも、それが親戚や友人だったら、というある程度の人間としての同胞感覚を持つように心がけること。人間性をふくんだ眼差しで普段から人を見ておかないと、これはなかなかできないことである。

次に、自分が批判を受けている側だったらどうだろうか、という立場を入れ替えた発想に立つこと。これはとりわけ暴言や心無い発言、不倫をめぐるスキャンダルなどのときに役立つ発想である。

さらに、情報を発するまでの間に時間的なゆとりを持たせることである。利発な人は頭の回転が速く、反応が早いと思われがちだが、よく考えて発信することの方が本来は利発なことだからだ。それでも間違いはあるし、情報が古くて更新されていなかった場合はあるだろう。そもそも人間は完ぺきではない。しかし、修正さえ施していけば、最終的に現代社会では豊富な情報に基づいた、かなりの意見の収斂が見られるはずだ。

時間が経っても意見がきっぱりと二つに割れ、収斂しないとすれば、それはあらかじめ立場が決まっている論点だったからだ。そんな党派化した人びとを歩み寄らせることはそもそも難しい。長らく二大政党の必要が叫ばれてきた日本政治はいま分極化しているけれども、ごく少数の熱心な人々が両側にいる印象は拭えない。とすれば、本来メディアが語りかけるべき先は、そのあいだにいるその場その場で判断を下す人びとであるべきだし、そこにおいて政治に目が利く古株の記者が果たす役割は、本来とても大きいはずなのだ。

人びとは感情で動くのだから、感情を遠ざけてもしかたがない。重要なのは、ポスト・トゥルースの時代に通用する真実の探求と発信をメディアが行っていくことである。

【執筆:国際政治学者 三浦瑠麗】

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