「神様は歌わせてくれないのですか?」本田美奈子.が白血病の闘病中にこぼしたホンネ

  • 「白血病」が発覚しても明るく、笑顔を絶やさなかった美奈子さん
  • 闘病中に贈られた福山雅治が歌う1本のビデオテープに涙…
  • 退院後に再発が発覚…。闘病中に綴られた日記を初公開 

白血病のため、惜しまれながらもこの世を去った本田美奈子.さん。

1月24日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、美奈子さん本人が闘病中につづった日記を初公開。笑顔の裏で抱いていた、本音に迫った。

“魂の歌声”と称された美奈子さんの歌声

1967年に誕生した美奈子さん。

80年代、中山美穂、南野陽子らと同時期にデビューし、絶大な人気を誇った美奈子さん。小さな体から放たれる存在感溢れる声は、“魂の歌声”と称された。

『殺意のバカンス』でデビューした美奈子さんは、新人とは思えない歌唱力で、瞬く間に注目を集めた。

当時の清純派アイドルの常識を覆し、話題をさらったのが『1986年のマリリン』。現在とは異なり、当時のアイドルの“へそ出しルック”は異例のファッション。実は、この衣装は美奈子さんのアイデアだったという。

その後、アイドルとしてだけでなく、女優業やタレント活動など幅広く活躍したが、徐々に人気が陰り始める。

そんな美奈子さんはこれまでの活動とは全く違う、ミュージカルの道へと歩み始める。

世界的に有名な作品『ミス・サイゴン』のオーディションに一般応募し、1万人以上のライバルたちから主役の座を勝ち取った。

これ以降、美奈子さんの元には出演のオファーが殺到し、ミュージカル女優として大きな評価を得ていった。

そして、代名詞である『アメイジング・グレイス』を始め、クラシック音楽にも挑戦し、芸能界で唯一無二の存在となっていった。

意外な素顔!?「鍋奉行」だった美奈子さん

今回、番組MCの坂上忍は、美奈子さんの故郷である埼玉県朝霞市に2018年9月にオープンした「本田美奈子.ミュージアム」を訪れた。

そこで坂上を出迎えたのは、美奈子さんと同じレコード会社に所属していたよしみで、デビュー以来の付き合いがあるという、歌手の坂本冬美さん。現在でも、美奈子さんの家族との親交を重ねているという。

ステージがイメージされた場所には、美奈子さんの写真が飾られ、その軌跡をたどることができる。

また、当時の楽屋の様子を再現した展示も。坂本さんは「鍋奉行で。美奈子ちゃんが料理してみなさん、楽屋にいらして一緒にご飯を食べて…」と当時を振り返った。

再現された美奈子さんの楽屋には食器や化粧品などがあり、すべて当時使っていた私物だという。当時はこれらをトラックで運び、日本全国どこへ行っても楽屋は同じ状態に保たれた。

病気になっても家族への気遣いが絶えなかった…

ミュージアムには美奈子さんの母・工藤美枝子さんも訪れ、美奈子さんの闘病生活の様子を語ってくれた。

美奈子さんの病気が見つかったのは2005年1月、ほんの些細なことからだったという。

母・美枝子さんは「レコーディングをしていた時に『調子が悪い』というので、社長さんが『お医者さんに行って診てもらいましょう』といい、その時にわかったんです」と振り返った。

診断書に書かれた病名は「急性骨髄性白血病」。

“血液のがん”と呼ばれる原因不明の病だが、美奈子さんの場合は200万人のうち、1人から2人程度の割合で発症するという白血病の中でも非常に稀な病だった。

美奈子さんは診断されたその日に即入院。無菌室での生活を余儀なくされたという。

母・美枝子さんは「『急性骨髄性白血病です』と言われた時に、私の方がびっくりして。逆に美奈子に励まされました。『お母さん大丈夫よ、私頑張るから』って」と話した。

一方、冬美さんは美奈子さんの病気をテレビで知ったといい、「そんな深刻な状態になっているとは思ってもみなくて」と言葉を詰まらせた。

抗がん剤治療や激痛を伴う骨髄組織の採取など、治療の日々が続き、抗がん剤の副作用で髪の毛は抜け落ち、バンダナ姿でいることが多くなったという。

だが、そんな状況でも美奈子さんは明るく、笑顔だった。

母・美枝子さんは「口の中に口内炎ができて、それが青カビみたいになってて、お水も飲めない。それでも美奈子は私に気を遣ってくれて。雨が降ると『階段が滑るから危ない』や4時ごろになると『ラッシュになるからもう帰って』とか」と、気遣いが絶えなかったという。

冬美さんも「私たちは“天使”と思っています。会ったらあの笑顔ですから。本当にイヤな印象を誰にも与えない人なんです」と振り返った。

「素敵ね」と涙を流した1本のビデオテープ

入院して3か月の2005年4月は、美奈子さんのデビュー20周年だった。

そんな中で美奈子さんの元に1本のビデオテープが届いた。

そのビデオテープには、福山雅治さんが歌詞のない楽曲を歌う姿が映されていた。早く回復して、美奈子さん自身がこの曲に歌詞を付けて歌ってほしいというアーティストたちのメッセージだという。

この曲は、美奈子さんの音楽プロデューサーで作曲家の井上鑑さんが美奈子さんを励ましたいと、福山さんと彼のツアーメンバーに話したところ、全員が賛同し、このビデオが作られた。

ビデオテープを見た時の美奈子さんの様子を、美奈子さんの事務所の社長、株式会社ビーエムアイ・高杉敬二さんは「美奈子が福山さんのファンだったこともあり、嗚咽したというか、泣いてしまった。『えー!』って言って泣いちゃった。『素敵ね』と言っていました。あと、『すごく耳に残るし、素敵だね』と」と語った。

そんな美奈子さんは1日でも早い復帰に向け、骨髄移植を選ぶが、そこには大きな壁があった。

美奈子さんに適合するドナーは見つかっていたが、先に2人の患者が手術を待っているため、事実上、手術の機会が美奈子さんまで回ってこないということが分かった。

そこで次に美奈子さんが選んだ治療法が、当時骨髄移植の次に効果があるとされていた、臍帯血移植。骨髄と同様に、血液を作り出す細胞が多く含まれる臍帯血を移植するという治療法。

この時点で入院から4か月が経ち、無菌室にこもる生活を送っていた。その心境を吐露する音声には治療のために風に当たることができない闘病生活を嘆き、「外で風に当たりたい」とこぼしている。

その後、臍帯血移植手術により劇的な回復を遂げ、ようやく退院できることに。退院の日には、お世話になった看護師の方々らに感謝の気持ちを込めて『アメイジング・グレイス』を歌ったという。

退院後に待っていた壮絶な生活と再発

こうして約200日ぶりに自宅へ戻った美奈子さんだが、退院後の自宅での生活は想像を絶するものだった。

母・美枝子さんは「もう菌を一番、怖がっていました。例えば、『桃が食べたい』と言った時には、包丁を熱湯に入れて煮沸して、桃を剥いて、また煮沸して…。食べるときには『お母さん、桃が温かい』と言って。でも、きれいに食べていましたけど」と話した。

食事以外にもタオルは用途ごとにそれぞれ分け、家族と同じものを使わないなど、制限の多い生活を余儀なくされていたという。

それでも家族水入らずの日常生活を送り始めた美奈子さんだが、1か月後の検診で白血病の再発が発覚する。

母・美枝子さんは「再発」という言葉に頭が真っ白になり、美奈子さんの顔を見ることができなかったと振り返る。再発が分かり、翌日を目途に入院といわれるも、美奈子さんは「3日くらい余裕をください」と言ったという。

再発が告げられた日に、美奈子さんは自宅のカレンダーにメッセージを書き残した。

「お母さん ごめんネ…又悲しい涙を出させちゃったネ… 幸せにするって言ったのに… でも早く治すからネ
私は泣かないよ!負けちゃいられない!頑張るヨ!美奈子」(原文ママ)

再入院した美奈子さんには、抗がん剤による過酷な治療が待っていた。それでも、弱音を吐かずに、いつでも笑顔を絶やさなかったという。

そして、美奈子さんがこの世を去る約1か月前に、美枝子さんの携帯電話で撮ったのは、無菌室でシャワーを浴びながら1人で『アメイジング・グレイス』を歌う美奈子さん。最期まで舞台に立つことを諦めていなかった美奈子さんは、人知れず歌を歌い続けていた。

だが、これが彼女の残した最後の歌声となった。

2005年11月6日、美奈子さんは38歳でこの世を去った。

本音が綴られた1冊の日記を公開

美奈子さんの死から13年間、当時のまま残る美奈子さんの部屋を見せてもらった。

母・美枝子さんは、ベッドの布団も季節ごとに替え、パジャマは10日に1回洗っているという。また、美奈子さんが愛用して、病院へ持っていっていたバッグもそこには残されていた。

そして今回、美奈子さんの机に残されていた1冊の闘病日記を見せてもらうことができた。

そこには、家族すら見せることがなかった本音が綴られていた。

8月31日、移植後111日。

白血病の再発が告げられた日の日記には「ショックでショックで。でも落ち込んだ顔を母やボスに見せたら余計に心配かけちゃうから元気でいなきゃ。でも、でも早すぎるよー!」と心境が明かされていた。

さらに、「どんな治療をするんだろう?又辛い、死にそうで孤独な治療なのかな?もう辛いのも痛いのも嫌だよー。今日先生がメルアドを私に教えてくださった。本当に優しい、神様みたいな方だなー。先生もショックだったろうな。

またナースの方々にまたお世話になることになっちゃった。まだ1ヵ月しか経ってないのに…いつになったら私の周りにいる愛する人たちを安心させられるの?もうこれ以上心配、そして迷惑をかけたくないよ。

私は歌を通して希望を与えることができたらと思っているのに、神様は歌わせてくれないのですか?どこまで苦しんだら健康になって歌ってもいいのですか?それとも私の歌は人々に必要ないのですか?苦しいのはもう嫌。悲しいのももう嫌。毎日笑顔でいたい。ただそれだけ、お母さんごめんね」と綴られていた。

笑顔の裏に隠された美奈子さんの思いに、冬美さんも坂上も言葉が詰まった。

「『私は歌っちゃいけないんですか』ってそんなことあるはずもないのに…」と坂上は涙を流した。

美奈子さんの死から1年後、闘病中に書き留めていたメモを基に、歌詞が付けられ、福山さんたちによってある楽曲が世に出された。

その歌詞には美奈子さんが伝えたかった「小さな幸せ」が綴られている。

当たり前の日常、「ありがとう」「おはよう」が言える毎日。闘病生活を無菌室で送っていた美奈子さんだからこそ、気づくことができたこと。

美奈子さんは亡くなる半月前に、白血病患者などを支援する団体「リブ・フォー・ライフ」設立を自ら提案、その遺志は今も受け継がれている。

美奈子さんの死後、13年間で日本骨髄バンクのドナー登録者数は2倍以上になった。

母・美枝子さんは「少しでも美奈子の闘病生活を知っていただきたい」と目に涙を浮かべた。

「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54

直撃!シンソウ坂上の他の記事