二度の離婚、『放浪記』初演での降板危機…国民的女優・森光子にとって仕事は生きることだった

  • 13歳で両親を亡くし、生きるために女優の道へ進む
  • でんぐり返し、1年目の降板危機…48年間出演し続けた『放浪記』の秘話
  • 「人生は、初日も千秋楽も教えてくれない」

女優としてはただ一人となる国民栄誉賞を受賞し、日本一愛された「お母さん」と言われながらも、プライベートでは二度の離婚を経験している女優・森光子さん。11月10日七回忌を迎えた。

なぜ、その後は仕事一筋で独身を貫いたのか。11月29日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、国民的女優の素顔に迫った。

バラエティーやワイドショーの司会にも挑戦

1920年(大正9年)に、京都の割烹旅館に生まれた森さん。13歳の時に両親が相次いで他界し、いとこで当時日本を代表する時代劇スターだった嵐寛寿郎のつてで女優の道へ進む。

その後、21歳になった森さんは子どもの頃夢だった歌手になるため上京。しかし、1941年(昭和16年)に、日本は太平洋戦争に突入。森さんは慰問団の一員として戦地で歌うことに。だが、戦争は森さんの兄の命まで奪ってしまう。

終戦から2年後の1947年(昭和22年)、森さんは映画館で知り合った日系アメリカ軍人と27歳で結婚。しかし、わずか1週間で夫はアメリカへ帰国し、会うこともなく離婚となった。

その後、大阪で女優の仕事に復帰。10年以上、脇役で舞台に出演していた。

そして、41歳の時、出会ったのが舞台『放浪記』。一躍、国民的女優となった森さんは、その翌年に紅白歌合戦の司会を任され、CMやテレビドラマなどにも出演。

1970年、49歳の時には“日本のお母さん”のイメージが定着するきっかけとなった、ドラマ『時間ですよ』がスタート。

25年続く大ヒット作となり、女優として頂点を極めた森さんは、新たな挑戦を始める。

53歳の時には女優として異例となる、生放送のワイドショー『3時のあなた』の司会へ。森さんを慕う大物ゲストが続々と出演した。

番組の司会で共演した須田哲夫さんは「森さんは舞台女優で、一世を風靡していた人ですから。その人が生放送をやるのは画期的なことでした。生放送なので、いろいろなことが起きましたが対応は見事でした。どんなことがあっても動揺した森さんを見なかった」と振り返った。

生放送で動揺しない森さんを象徴した出来事は、1982年に連日起こった大きな事故。

2月8日は史上最悪の人災と言われた「ホテルニュージャパン火災」。番組は休止だと思われたが、報道のフロアで事故について述べる森さんの姿が。

翌日、2月9日に起こった日本航空の福岡発羽田行の旅客機が羽田沖に墜落した事故でも、森さんは報道フロアから的確に情報をリポートするなど、女優とは思えない対応力を見せた。


涙…田中角栄元首相との伝説のインタビュー

そんな森さんには今も語り継がれる伝説のインタビューがある。

当時、ロッキード事件で控訴中だった田中角栄元首相とのインタビュー。視聴者や田中氏本人も事件についてインタビューすると思っていた現場で、森さんが聞いたのは田中氏の名前の由来。

事件には一切触れずに、知られざる田中氏の一面を聞き出した森さんに、田中氏も「真摯なインタビューで感激しました」と感謝を述べ、予定時間を超えた異例のインタビューとなった。

インタビューを終えた田中氏の目には涙が流れていた。当時、世間からバッシングを浴びていた田中氏にとって、思いもよらないインタビューだったのだ。

なぜ、日本を代表する女優がワイドショーの司会になったのか。
その理由を森さんは「いつも脚本の中のセリフを覚えて言うということではなく、自分の言葉で話すことができる。それが不安よりも、楽しみが大きくなって、とうとうお引き受けをしてしまいました」と語っていた。(1988年『3時のあなた』20周年パーティー)

また、須田さんは「『仕事を決めるにあたってギャラの交渉をしないで。いくらでもいいんだ。私、今最高ランクよ。このギャラじゃ使うところが限られるでしょ。そうではなくいい仕事を、いくら出演料が安くてもいいから、いい仕事をとってきなさい』」と森さんがマネージャーに話しているのを聞き、森さんにとって生きるってことは仕事をすることだと須田さんは実感したという。

そして、61歳でのバラエティー番組へ進出。『欽ドン!良い子 悪い子 普通の子』(1982年~)に出演した森さんは、国民的女優でありながら、カツラをかぶってお茶の間に笑いを送り届けた。

萩本欽一さんは、「最初に僕が高校生の時にラジオでファンになった芸能人が森さんだったの。ちょうど自分で番組を持つようになって、プロデューサーが『女優さん、誰かお呼びしようと思うけど、来てほしい人誰?』と、それで森さんって言ったの」と森さんとの意外な共演のきっかけを明かした。

二度目の離婚で森光子が決意したこと

舞台、ドラマ、バラエティー番組に、ワイドショーの司会と、森さんにとって生きることは仕事をすることだった。その思いが芽生えたワケは、二度目の離婚にあった。

舞台『放浪記』が始まる2年前、39歳の時に森さんは大阪のテレビディレクターと再婚。当時の森さんは、まだ主演の経験もなく、脇役ばかりの女優だった。

しかし、41歳で『放浪記』の主演に抜擢。その成功で仕事に追われる日々になり、夫婦はすれ違い、女優と妻の両立も限界を迎えていた。生きるために女優への道を選んだ森さんにとって、ようやくつかんだ主演の座。

夫は森さんを思うが故、仕事を減らすようにすすめたが、亀裂は修復不可能となり、森さんは仕事を続けることを選んだ。

晩年、二度目の離婚を振り返った森さんは、自らを“結婚の落第生”と称し、「もう二度と結婚しない。これからは役者ひと筋に生きていく」ことを誓ったという。

代名詞「でんぐり返し」に込めたこだわり

1961年10月20日に芸術座で行われた『放浪記』第一回目の公演。それから48年間、一度も休演することなく、代役なしで演じ続け、2009年に放浪記は2000回公演という不朽の金字塔を打ち立てた。

森さんが演じる主人公は女流作家・林芙美子。明治に生まれ、昭和初期から戦後にかけて活躍した女流作家の第一人者で、その生涯を描いた舞台。

3時間を超える長編舞台で、ほぼ出突っ張りの森さんは400近いセリフをすべて手書きで書きだして暗記しているという。

そして、最大の見せ場「でんぐり返し」。芙美子の書いた小説が雑誌に掲載された時の喜びをからだ全体で表現したもので、そこには森さんのこだわりも隠されていた。

初演が行われていた1961年は、東京オリンピックを3年後に控え、日本中がオリンピックモードに。
森さんは、オリンピックの体操選手を参考に、後ろの客席にも見えるよう、大きなアクションででんぐり返しをするようになったという。

森さんの熱演により大成功をおさめた『放浪記』。初主演を終えた森さんは「これからまた主役をやらせて頂くような気持ちは持たずに、また元のように脇役に戻って地味になるべく長く、演技者として生きていきたいと思います」と謙虚な姿勢を見せている。

その背景にあるのは、この舞台に出会うまで、主演が巡ってくることはなく、脇役として活動してきたこと。不遇の女優時代を森さんは「当時の気持ちを川柳みたいなもので言ったことがございます。『あいつより、うまいはずだが、なぜ売れぬ』。とても生意気だけでなく、不遜な女、少女だったと反省しております」と振り返っていた。

そんな脇役生活をしていた森さんにとって、人生の転機となったのが「奇跡の3分間」と呼ばれた日本を代表する劇作家・菊田一夫さんとの運命の出会いだった。大阪を訪れていた菊田さんが空港へ向かう際に、帰りのタクシーを待つ3分間だけ劇場へ寄った時に演技をしていたのが森さんだった。

森さんの演技を目にした菊田さんは、自分の舞台で起用を決定。それが『放浪記』だった。

『放浪記』1年目に降板危機…「でんぐり返し」の終わり

だが、41歳にして人生初の主演の座をつかんだ森さんに、初演で降板の危機があったという。

その事実を、『放浪記』でライバル役を演じた浜木綿子さんが、かつて共演した坂上忍ならばと、当時のことを初めて明かしてくれた。

「お傍によるのもはばかるくらい…」と振り返る浜さん。「(森さんは)何か、きりきりなさっている。あの膨大なセリフ、私たち共演者と話をするなんて余裕は、絶対なかったと思います」と語った。

そして、降板の危機について浜さんは、森さんが1年目の公演中に高熱を出して病院に運ばれたことがあったことを打ち明けた。

肺炎のため緊急入院をした森さんに、菊田さんは降板させることを決め、浜さんに主演の代役をするように頼んだというが、浜さんは「私なんかがやったら、お客さん満足なさらないし…」と断ったという。

だが、翌日劇場に姿を見せた森さん。病院で降板の話を耳にし、主演のチャンスは逃したくないと、楽屋に酸素吸引器を持ち込み、毎日病院から劇場へ通った。

その後、再演を繰り返して前人未到のロングランを達成した『放浪記』。70歳を過ぎ、体力の低下を防ぐため、日課でスクワットも始めたという。

しかし、1900回公演を控えた87歳の時、森さんは代名詞のでんぐり返しを封印するという、大きな決断を迫られた。

87歳の森さんに、以前のようにでんぐり返しをする体力は残っていなかった。それでも、目標にしていた2000回公演を達成するために、体の負担を考えての決断だった。

この時、森さんにでんぐり返しの封印を告げた演出家・北村文典さんは、舞台にかける森さんの強い思いを痛感したという。公演の度に「でんぐり返しの中止」を進言していたというが、森さんは「『放浪記』をやる限り、あれを外すことはできません。あのでんぐり返しをやらなければ、もうやめます」と返事があったという。

「でんぐり返し」への強い思いを抱く森さんだったが、北村さんは2000回公演まで続けるために説得を続け、「一晩考えさせて」という返事があった翌日、森さんは「でんぐり返し」の中止を決めた。

そして、代わりに取り入れられた演出が「万歳三唱」。この演出に、「でんぐり返し」に勝るとも劣らない大きな拍手が送られた。

突然の降板は「重病」だったのか!?

2009年、『放浪記』の2000回を迎えた日、森さん89歳の誕生日だった。

森さんを尊敬する多くの芸能人が祝福に駆け付ける中で、2000回への感謝を述べた森さんは、「表現のもっと豊かな女優になりたいと思います」と、どこまでも謙虚な姿勢を見せた。

この年、女優として初めての国民栄誉賞を受賞し、受賞後の会見で翌年の再演決定も発表されたが、2010年、公演の3か月前に突如、森さんは降板した。

そこで沸き起こったのが「重病説」。

彼女の身に一体、何が起こっていたのか。その真相について北村さんは「重病ということはなかったです。(森さんの中には)お芝居の始まりから終わり、初日から千秋楽までどんなことがあっても、必ず務めなければならない、というのが体の中に染みついているんです。2000回の時はやれたけれども、それからあとは果たして…」と体力への不安があったという。

3時間を超える大作を2か月の間続けることは、お客様もとよりスタッフにも迷惑がかかると、途中での休演を何より嫌がったという。突然の降板は、重病ではなく、完璧を求めるがゆえの信念の降板だった。

降板後の森さんは、舞台に立てなかった人間が外で姿を見られるのは恥だと、メディアに出演することはもちろん、外出も控えるようになったという。

だが、「完璧な演技をお客様に見せたい」と、舞台復帰を目指して自宅にスポーツトレーナーを呼び、トレーニングを行っていた。

92歳の時、森さんは肺炎で入院する。それでも、病室に台本を持ち込み、稽古をするなど、最後まで舞台復帰へと執念を燃やしていた。亡くなる当日も、化粧をして、お気に入りのブラウスとピンクのカーディガンに着替えて、凛として過ごしていたという。

そして、2012年11月10日、森さんは肺炎による心不全で亡くなった。92歳だった。

萩本さんは森さんを「喜ばすサービルのてんこ盛りみたいな人でした」と表現。

また、北村さんも「天上でも森さんは、活躍している頃と同じように、お客様のことを思い、出演者や裏方のことを思い、『また、みんなで放浪記をやりたいな』と、そういう声が聞こえてくるような気がします」と話した。

晩年、「人生は、初日も千秋楽も教えてくれない。終わりを考えることより、今すべきことがあるんじゃないかしら。私はいつも明日があると思って生きてきました。みなさんも明日を大切に生きましょう」と女優らしい表現をしている。みんなに愛され、穏やかな口調とは裏腹に、女優・森さんの中には命を懸けてでもやりたい、仕事に対する曲げられない信念があった。

「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54

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