パワーと運と緻密な計算が生んだ日中友好関係 継承されなかった当時の精神

カテゴリ:ワールド

  • 日中国交正常化交渉の立役者田中角栄と周恩来という政治家
  • 台湾の国連脱退、中ソ関係悪化、中米接近と、日中関係は時代の産物
  • 当時周恩来が残した言葉・日中友好の精神はいずこへ・・・

洞察力・決断力・政治力がもたらした国交正常化

1978年福田赳夫氏(右端)と鄧小平氏(左端) 日中平和友好条約発効

福田赳夫首相と中国の鄧小平副首相と日中平和友好条約の批准書を交換し、条約が発効して10月23日で40年となる。この条約のベースとなったのが、1972年の日中国交正常化に関する共同声明だ。立役者は「コンピューター付きブルドーザー」こと田中角栄首相と、文化大革命中という激しい権力闘争の中で起き上がりこぼしのように生き残った「不倒翁」周恩来首相(国務院総理)。

若い人たちにとって中国=中華人民共和国のことだろうが、かつて日本は台湾(中華民国)を国家として認めており、中華人民共和国を国家としては認めず、大陸は中国共産党が支配している地域だから「中共」と呼んでいた。しかし1972年の日中国交正常化により、中国=中華人民共和国となり、台湾との国交はなくなった。

批准書を交換し抱き合う福田赳夫氏と鄧小平氏

日中国交正常化は、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約(吉田茂内閣)、日ソ国交回復(鳩山一郎内閣)、日韓国交正常化(佐藤栄作内閣)に続く日本にとって重要な対外関係処理の一つだった。いずれも当時の指導者の国際環境を読む洞察力と決断力、そして反対派を押さえる政治力があったからこそ実現できたものと言える。

田中角栄が成し遂げた日中国交正常化

日本に贈られたランランとカンカン

1952(昭和27)年、サンフランシスコ平和条約の発効直前に日本は台湾と平和条約=日華平和条約を締結。大陸は1949年に毛沢東主席が中華人民共和国の成立を宣言していたが、台湾は蒋介石総統率いる国民党政府が支配していて、日本はアメリカに追随して台湾を中国の正統な政権とみなしていた。

しかし、1972年9月の田中角栄首相・大平正芳外相の北京訪問時の日中共同声明により、日本は中華人民共和国を中国の唯一の合法政府であることを承認。このとき中国から東京の上野動物園にパンダのランランとカンカンが贈られ、日本にパンダブームが巻き起こった。

田中首相、大平外相は二階堂進官房長官とともに1972年9月25日北京空港に降り立ち、30日までの滞在中、田中首相は周首相と4回首脳会談を行った。田中首相と大平外相は、田中首相が周首相と大局的な議論をし、大平外相が中国の姫鵬飛外相と共同声明の文言の詰めなど実務的な交渉をするという役割分担だった。

焦点は、国交正常化後の日本と台湾の関係、中国の賠償請求放棄、日米安保条約の扱いなどだったが、田中首相と周首相、大平外相と姫外相の丁々発止のやり取りを経て9月29日に共同声明調印にこぎつけたのだ。

“コンピューター付きブルドーザー”の魅力

1972年 日中国交正常化に関する共同声明に署名する田中角栄氏

田中角栄氏は1918年5月生まれ。官僚出身で長期政権だった佐藤栄作首相の後をついで54歳の若さでの首相に就任し、「決断と実行」をモットーとしていた。「今太閤」「コンピューター付きブルドーザー」ともてはやされ、独特のだみ声でのユーモアと迫力満点の演説で聴衆を魅了して大変な人気だった。

私が記者として取材した頃の田中氏は、ロッキード事件の被告という身だったが、キングメーカーとして政界に隠然たる力を持っていた時期だった。とにかくエネルギッシュで、大勢の記者にいきなりマイクを突き付けられても嫌な顔一つせず、丁寧にインタビューに答えていたのを覚えている。マスコミ各社が田中氏の単独インタビューを狙って競っていた。

政治的には敵である野党議員にも人気があった。30年ほど前だが、某野党党首に「日本の政治家で一番すごいと思うのは誰か」と尋ねたら、間髪を入れず「そりゃ田中角栄だよ。私が当選したてのころに大臣だった田中氏に地元の件で陳情をしたら、なんと次の日にやってくれたんだ。野党の1年生議員の陳情にだよ。」と話していたのを思い出す。

そんな田中氏がだからこそ、自民党内の反対意見を抑えて、総理就任のわずか84日後に日中国交正常化という大仕事を成し遂げられたと言える。

「世界中で周恩来に匹敵する政治家はいない」

1972年 共同声明に署名する周恩来氏

一方、周恩来氏は1898年3月生まれ、田中氏より20歳年上だった。田中氏が生まれる1年前の1917年に日本に留学して明治大学で勉学に励み、1919年に帰国。1949年の中華人民共和国建国後、国務院総理に就任し、1976年に死去するまで27年間この地位にあった。

田中氏は毛沢東氏を評して「彼は詩人であり、哲学者であり、教師だ」と言っていたが、周氏については「本当の政治家は周恩来だ。世界中で周恩来に匹敵する政治家はいない。政治家として、行政官として周恩来は見事なものだ」と激賞していたということです。また周氏については大平氏も「一口に言うと偉大な政治家であり、きわめて有能な外交家であり、超人的な行政官でもあられたように思う。人に接してきわめて庶民的であられた。しかし交渉相手としては、ねばり強い手ごわい人であった」と述懐している。

日中正常化は時代の産物だった

調印式会場へ向かう田中角栄氏と周恩来氏

なぜ1972年に日中国交正常化が実現したのか。

国連においては、しばらく中国=中華民国だったが、北京政府はじわじわと自らを支持する国を広げ、1971年10月の国連総会で台湾は国連常任理事国の座を失い、中華人民共和国が常任理事国となった。これにともない台湾は国連を脱退。

これに先立つ1971年7月、アメリカのニクソン大統領は北京訪問を発表した。日本への通告は発表の直前で、日本政府にとってはまさに寝耳に水の出来事。「ニクソン・ショック」と呼ばれた。当時の佐藤栄作首相も中国との関係正常化を模索していた。佐藤腹心の保利茂自民党幹事長は、訪中する美濃部亮吉東京都知事に周首相あての書簡を託してアプローチを試みたが、周首相からは相手にされなかった。

握手を交わす田中角栄氏と周恩来氏

こうした中、ポスト佐藤を虎視眈々と狙っていた、当時通産相の田中角栄氏は中国問題の勉強会を立ち上げ、さらに1972年7月5日の自民党総裁選に向け、ライバルの福田赳夫氏に対抗するために、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘3氏と「日中国交の正常化は今や国論である。平和条約を目途として交渉を行う」という政策協定を結んで党内の支持基盤を固め、総裁選に勝利した。そして総裁選直後の記者会見で「正常化の機が熟していると思う」と述べ、さらに7日の田中内閣発足に際しては「中華人民共和国との国交正常化を急ぎ、激動する世界情勢の中にあって、平和外交を強力に推進していく」という談話を発表した。田中氏は、日中正常化は、毛沢東、周恩来両氏という中国の第一世代の目が黒いうちにやらなければならないと覚悟を決めたのだそうだ。

一方、中国側にも日本との正常化を急ぎたい理由があった。ソ連(今のロシア)との関係が悪化して中ソ国境で緊張が続き、アメリカ、日本を含む各国との関係正常化によってソ連を包囲したい思惑があった。さらに中国国内では文化大革命によってもたらされた内政、外交混乱の修復が急務だったが、林彪によるクーデター未遂事件と「四人組」台頭のはざまで、周恩来氏の権力が最も強かった時期だった。周氏は日本に中国との交正常化という大目標を掲げた田中角栄政権の誕生を予想していて、この機会を逃してはなるまいと考えたようだ。周氏は田中首相を中国に迎えた1972年には膀胱がんが見つかっていて体調がよくなかったことも日中正常化に向けて周恩来氏の背中を押したともみられている。

周到に計算された「ピンポン外交」

1972年 ニクソン元アメリカ大統領と毛沢東氏の会談

1971年愛知県名古屋市で行われた世界卓球選手権に中華人民共和国が6年ぶりに参加、アメリカチームを中国に招待するに至り、「ピンポン外交」と呼ばれた。アメリカと中国はこれを契機に急速に関係を深め、ニクソン訪中実現に至った。日本を舞台にした「ピンポン外交」は日本を対中正常化に引き込むための周到な計算の一つだったという見方もある。こうした米中の動きを見ていた日本国民の間で、「日本もアメリカに遅れてはならない」というムードが高まっていたなかでの田中訪中だった。

大勢の中国の人々に見送られて北京を発つ田中角栄氏

国交正常化を成し遂げて田中首相らが羽田空港に帰国すると、空港にはたくさんの人たちが出迎えていた。三木武夫副総理ら自民党の幹部だけでなく、社会党、公明党、民社党の委員長も待ち受けていて田中首相に握手を求めた。

ただ日本国内には台湾との関係を重視する「親台派」もいた。「蒋介石総統は、中国が日本の一部を占領するのを放棄し、日本に対する賠償請求を放棄し、天皇制を維持した。終戦時に中国にいた二百数十万人の日本軍兵士を帰してくれた」という理由からだ。田中首相は自民党に総裁直属機関として日中国交正常化協議会を設置し、自民党内の意見調整を図ったが、意見調整が不十分なまま訪中していた。帰国後の自民党両院議員総会で新台湾派の議員から激しい突き上げを受けたが、何とか乗り切った。

一方、中国政府は、田中首相訪中の前から、これまでの対日批判姿勢を転換する理由を説明し、日中戦争で苦しめられ日本に恨みを持つ多くの中国人を説得する必要があった。このため周恩来首相も作成に関わった指示書を出して全国各地で集会を開き、国内の反日感情を抑えつけた。

田中角栄氏を見送る周恩来氏

また周氏は、北京での会議を終え共同宣言に調印した後の田中角栄首相らを上海に案内した。
当時の上海は、文化大革命を主導した「4人組」の一大拠点で、周氏は上海の大物・張春橋氏の顔を立てて4人組の批判を封じたのだ。

「覇権を求めるべきではない」周恩来の信条

中国の人口は日中国交正常化当時は8億6千万人だったが、今や約14億人だ。経済も大きく成長し、GDPが世界第2位の経済大国となって、日本にとって中国は最大の貿易相手国だ。また軍事力について日本政府は「継続的に高い水準で国防費を増加させ、核・ミサイル戦力や海上・航空戦力を中心とした軍事力を広範かつ急速に強化している」と見ている。

外務省の記録によると、田中首相との会談で周恩来首相は「我々は財政上、先端的な武器は持ちえない。また軍事大国には決してなりたくない」と話している。また日中共同声明と平和友好条約には反覇権条項すなわち「両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。」(平和友好条約第二条)とある。

しかし現在の中国の行動は、周恩来氏の発言、そして日中共同声明、平和友好条約の精神からかけ離れていると言わざるを得ない。日本と中国の関係の将来のあるべき姿を共同で考えるべき時に来ていると考える。

(執筆:フジテレビ 解説委員 山本周)

参考文献
外交青書 昭和47年版 昭和48年版
データベース「世界と日本」
服部龍二「日中国交正常化 田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦」
早坂茂三「田中角栄回想録」
大平正芳「私の履歴書」
俔志敏「田中内閣における中日国交正常化と大平正芳」

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