「情と知の親分肌」逝く 仙谷由人元官房長官の素顔と功罪

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  • 情に厚く話好き…仙谷氏の素顔
  • 運命を分けた中国人船長釈放の対応
  • 東日本大震災発生時の仙谷氏は 

仙谷氏死去に惜しむ声続々…

民主党政権で官房長官などを務めた仙谷由人元衆議院議員が、今月11日肺がんのため亡くなった。72歳だった。
弁護士出身で民主党きっての論客として活躍し、官房長官としてもらつ腕をふるった仙谷氏の死。永田町では惜しむ声が広がった。

菅直人元首相
「具合が悪いという話は少し耳に入っていたが、まさかこんなに早く亡くなられるとは思っていなかったので本当にびっくりしましたし大変残念に思っている。黒子と言うほど隠れてはいないがどちらかと言えば、後ろに回って支える実力者だった」

菅直人元首相(10月16日)

立憲民主党・枝野幸男代表
「様々な指導をいただき、経験を積ませていただいた。博識で、頭の回転が速いという面での頭の良さと、いろんなことを深く勉強していることを感じた。本当に親分肌で、人のために汗をかけと、またご自身も人のために汗をかく。したがって、多くの後輩が仙谷さんを慕っていた。『知』の部分と『情』の部分を合わせもった先輩だった」

立憲民主党・枝野幸男代表(10月16日)

また、仙谷氏と相対してきた与党側からもその死を惜しむ声が聞かれた。

公明党・斉藤鉄夫幹事長
「訃報に接し大変びっくりしている。いろんな法律の議論を一緒にさせていただいたが私の印象はリアリストであったという点だ。理想は掲げながらも、現実になにができるかという観点で色々な発言をなさっていた。 心から哀悼の意を表したい」

公明党・斉藤鉄夫幹事長

私は、仙谷氏が民主党政権で党代表代行や官房副長官を務めた時を中心に取材を担当したが、仙谷氏の素顔は、記者会見や予算委員会などで切れ味鋭く答弁する姿からは想像できないほど、情に厚く、優しく、そして話好きだった。その鋭さと優しさの両面が、仙谷氏を民主党きっての実力者に上り詰めさせた原動力だったのだと思う。

弁護士から議員、官房長官へ…仙谷氏の歩み

徳島県出身で弁護士だった仙谷氏は、1990年の衆院選に当時土井たか子委員長が率いていた社会党から出馬し初当選した。

細川政権が誕生した1993年の総選挙では落選したが、1996年の総選挙に旧民主党から出馬し、衆院議員に返り咲いた。

その後仙谷氏は政策への詳しさと人間関係の巧みさを武器に党内で重要な位置を占めるようになり、前原誠司氏・枝野幸男氏ら当時の民主党のニューリーダーたちの後見役としても存在感を示した。

1998年の金融危機では、民主党としての対策とりまとめで活躍。共に携わった枝野氏は仙谷氏の働きは「日本の金融破たんを防いだ大きな功績」だったと強調している。

そして2009年に民主党政権が誕生した際には行政刷新担当大臣に就任し、事業仕分けなどに取り組んだ。この時には蓮舫氏を仕分けの担当者に起用し、蓮舫氏が「仕分けの女王」として台頭する道筋を開いた。

鳩山内閣で行政刷新担当相として入閣(2009年)

蓮舫氏は、仙谷氏の訃報についてツイッターで「とても尊敬しています。少年のような素顔も含め大好きです。寂しいです。仙谷先生」と悼んでいる。

蓮舫参院議員

そして2010年、鳩山首相の辞任を受けての代表選挙では、「反小沢」の立場から菅直人氏の陣営で精力的に動いて勝利、菅内閣の官房長官に起用された。

仙谷官房長官の運命を分けた中国漁船衝突事件

仙谷氏は官房長官就任の会見で「とことんクリーンでかつガバナンスの効いた政府を作りたい」と強調すると、その言葉通り中央省庁の官僚や官邸スタッフからの信頼を得て、強いリーダーシップを発揮し、国会論戦でも菅首相を守るように矢面に立ち続けたことから、「影の総理」とも呼ばれた。

その仙谷長官が、もっとも難しい事態に直面したのが、沖縄県の尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事件だった。

2010年9月、尖閣諸島の領有権を主張する中国の漁船が、海上保安庁の船に衝突するなどし、海上保安庁は船長を逮捕した。

これに対し中国は、レアアースの日本への輸出を制限したほか、逆に中国国内で日本人の身柄を拘束するなどの報復措置をとり、日中は緊迫した局面を迎えた。

こうした中、仙谷長官は、細野豪志氏を中国に派遣するなどして拘束された日本人の解放を実現。中国人船長については、沖縄地検の判断という形で釈放し、事態を収拾した。

菅元首相も今回、「なんとか収拾できたのは仙谷さんの力が大きかった」と振り返っている。

しかし、中国人船長を起訴せずに釈放したことや、あくまで検察の判断という形をとったことは、当時の野党自民党や世論の激しい反発を招いた。

中国漁船衝突事件(2010年)

さらにその後、仙谷氏は、国会で「暴力装置でもある自衛隊」と発言。災害救助などでも活躍する自衛隊を暴力装置と評したことも厳しい批判を受けた。

拍手で見えたスタッフからの信頼と、大震災発生時の仙谷氏

その結果、参議院で仙谷氏の問責決議が可決され、年明けに行われた内閣改造を機に官房長官を退任したのだが、その際に印象的な場面があった。

仙谷氏が首相官邸を去る際、見たこともないほど多くのスタッフがエントランスに集まり、割れんばかりの大きな拍手で見送られたのだ。世論からは厳しい批判を受けても、官邸のスタッフからは厚く信頼されていたことを感じさせる光景だった。

こうして官邸を去った仙谷氏だが、意外な形で官邸に戻る形となった。そのきっかけが2011年3月11日の東日本大震災の発生だ。

当時、民主党の代表代行を務めていた仙谷氏は、地震発生の瞬間は議員会館で行われていた党政調の会議に出席中だった。

地震がおさまり、会議室から国会議事堂内の民主党幹事長室へ向かう途中、「国会議事堂は関東大震災の時も大丈夫だったんだから、今回も平気だから皆心配しなくていいぞ」と気遣いの言葉をかけられたのを覚えている。

そして仙谷氏は地震発生の6日後、なかなか進まない被災者支援を取り仕切るため、かつての部下である枝野官房長官の下での、官房「副」長官に起用された。

思わぬ形で官邸に戻った仙谷氏は被災地をいち早く訪問し、復興財源として期間限定での税の上乗せなどを提案するなど、被災者支援を加速させた。また、訪れた宮城県気仙沼の避難所では、被災者と話しながら涙する姿もあった。

東日本大震災の被災地を訪問(2011年)

しかし、2012年の総選挙では、民主党政権批判が吹き荒れる中、その責任の一端をとるようにして落選。2014年の衆院選には出馬せず、政界を引退する一方、民主党の後輩議員へのアドバイザーもこなしていた。仙谷氏が事務所を構えていた新橋駅前の雑居ビルには、サラリーマンらに交じり、「仙谷詣で」をする政治家の姿がしばしば見かけられた。

政界でらつ腕を振るい、厚い信頼を勝ち得てきた一方、たびたび発言が批判を受けるなど、敵も多かった仙谷氏。枝野氏が「あえて言えば、仙谷さんの頭の良さに、回りが十分についていけなかったのではないか」と振り返るように、その能力が十分生かされたとはいえないのかもしれない。

それでも本当に情に厚く、優しく、話好きだった仙谷氏。私も、仙谷氏が東電の改革、原発再稼働や社会保障といった政治課題から、徳島ラーメンや落語の話に至るまで、熱く熱く語っていた姿を思い出す。 今頃、天国でもきっと政治談議に花を咲かせているに違いない。

(フジテレビ政治部 村上真理子)

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