9・11から17年=あの日を境に世界は変わった...

カテゴリ:話題

  • 世界的な大事件から17年 パンドラの箱は開いてしまった
  • あの日、アメリカ全土が異様なムードに覆われていた
  • ”もしも”あのテロがなかったら、世界は・・・

今年もあの日がやってきた。

グラウンド・ゼロの追悼式典では犠牲者の名前が遺族代表よって読み上げられた。日本人犠牲者の名前もあった。
黙とうは全米各地で捧げられた。

4機目が墜落したペンシルバニアの碑の前ではトランプ大統領がスピーチをし、犠牲者と遺族に哀悼の意を表すとともに「アメリカを守る」(keep America safe)と大統領としての決意を強調した。あのトランプ氏もこの日ばかりは政敵攻撃や自慢話を封印、まさに大統領にふさわしいスピーチをした。

ニューヨークとワシントンを襲った同時多発テロが起きた日、2001年9月11日の筆者の記憶を思い起こしてみる。

あの日、アメリカ全土が異様なムードに覆われた

あの日、筆者は駐在特派員としてワシントンにいた。

朝9時前、正確な時刻は覚えていないが、いつものように自宅テレビをつけっぱなしにしてCNNをモニターしながら支度していると、ニューヨークのワールド・トレード・センターに飛行機が突っ込んだという一報が流れた。その時は単なる事故かそうでないのか不明で、飛行機の種類も明確ではなかった。

その数週間前だったと曖昧に記憶しているが、フロリダのビルに一人乗りの小型機が突っ込むという事案があったこともあって、第一報の時点では、これがテロだと即断される気配はなかった。

 間もなく、2機目が突っ込んだ。これで重大テロ事件だと多くの人が瞬間的に悟った。筆者も、直ちに家を出て、タクシーを捕まえれば5分程で着く支局に向かった。

支局に着くと、すでにアメリカ全土が異様なムードに覆われていた。

日本では滅多なことでは報道特別番組が入らないゴールデン・タイムになっていたが、緊急特番の準備が始まっていた。実際にはもう始まっていたかもしれないのだが、正確な記憶は無い。

ワシントンがパニック状態に

すると今度はワシントン郊外のアメリカの国防総省ビルに一機突っ込んだ。9時38分頃だった。
ワシントン中にとてつもない轟音が響いたと聞いているが、筆者はすでに支局の中で特番対応に追われていたため、音は耳に入らなかった。代わりに一斉に流れた緊急情報で事件を知った。以降、延々と続いた日本での特別番組に支局から生中継でレポートを送り続けた。

 ワシントンはパニック状態になった。

多くの幹線道路が封鎖され、政府ビルから人々が避難し、流言飛語が飛び交った。

曰く”大統領別邸のあるキャンプ・デーヴィッドに飛行機が突っ込み白煙が上がっている”曰く”連邦議事堂近くで男が刀を振り回している”等々の情報が日本でも伝えられた。が、いずれもガセであった。

 朝の交通が麻痺した為、ワシントンに数多駐在していた記者達の多くが支局に辿り着けず、カーラジオで流れた流言飛語をそのまま携帯電話で本社に伝えたのが一因であろうと思われる。当時、スマホやSNSは存在していなかった。国中が大混乱する中で飛び交う玉石混交の情報を、通勤途上の車内に事実上閉じ込められた状態で整理するのは困難であったのだろうと想像する。回り回って東京本社から寄せられるこうしたガセ情報を撥ねつけるのに我々支局は非常に苦労したのを覚えている。

世界にとって未曾有の大事件

こうした中、ハイジャックされたとみられる4機目の旅客機の行方が分からず、しばらく焦点になった。連邦議事堂かホワイトハウスを狙っているのではないかみられていたが、我々にその所在は不明だった。支局は議事堂とホワイトハウスの間に今もある。4機目の行方が依然不明というレポートをしながら、背筋が凍るような気が一瞬したのを今でも忘れない。

だが、4機目はその頃ペンシルバニア州に墜落していた。映画にもなったのでご記憶の方もいると思うが、ハイジャックした旅客機を使った同時多発テロの発生を家族との携帯電話などで知った乗客有志がコックピットのテロリスト達に挑んだのである。その結果、4機目は野原に墜落していた。この旅客機がターゲットにしていたとみられる連邦議事堂に突っ込んでいたり、ワシントンに到達後墜落していたら、被害は間違いなく拡大していた。トランプ大統領も、今日の追悼演説で、勇気ある乗客・乗員が首都攻撃を防いだと称賛した。

相前後して、ニューヨークのワールド・トレード・センターのツイン・タワーが崩壊した。

ペンタゴンと呼ばれる国防総省ビルに突っ込んだ3機目は建物の裏側に突入したのだが、反対側の正面に突っ込んでいたら、もっと多くの犠牲者が出たはずである。正面側に執務室があった当時のラムズフェルド国防長官ら幹部も危なかったと考えられる。

この911の同時多発テロによる死者はおよそ3,000人。

アメリカにとってだけではなく世界にとって未曽有の大事件であった。

非常に卑近な余談になって恐縮だが、出社後、筆者が妻とは電話で一度話をしただけだった。彼女は学校にいた子供を迎えに一人で街に出た。手助けしろ等とは一切言わなかった。筆者が帰宅したのは数日後だった。

世界が変わった

この日を境にアメリカは変わった。世界も変わった。

 翌月にはテロ実行グループのアルカイダが拠点にしていたアフガニスタン侵攻が始まった。アルカイダを庇護していたタリバン政権は間もなく崩壊した。アメリカの圧倒的な軍事力ともともと相当な力を持っていた反タリバン連合の前にタリバン政権はほとんど抵抗できなかった。

 このアフガンン侵攻について、当時、ワシントンに反対論はほとんどなかった。与野党問わず異論は無かったと言ってもよい。アメリカは報復と懲罰に燃えていたのである。だが、タリバンの指導者達とアルカイダの首謀者、オサマ・ビン・ラディン容疑者らは姿を消した。

これによってアメリカは泥沼にはまる。

ある意味で、その後の展開はビン・ラディン容疑者の思う壺になったと言えるのかもしれない。

 アフガンの首都・カブールには親米の反タリバン政権が成立し、現在も存続するが、生き残ったタリバンとの戦争も続いている。

 ビン・ラディン容疑者は2011年にパキスタン国内でアメリカ軍に殺害されたが、彼が創設したイスラム教スンニ派の過激テロ組織は、姿を変え、今も各地に存続・活動している。

その後の対テロ戦争の人的・物的被害は甚大、恐ろしい限りである。アメリカ軍の死者だけでもあの日の犠牲者の数の倍を上回る。

”もしも”・・・

歴史に“もしも”は禁句なのだが、あの時、アメリカがアフガンでビン・ラディン容疑者を捕えていたら、後のイラク侵攻はなかったかもしれないと思わざるを得ない。甘い見方かもしれないが、“もしも”そうだったとすれば、イラク侵攻の口実が無くなっていた可能性は高い。

そして、“もしも”そうなっていたならば、後に、いわゆるイスラム国が出現することは無かっただろうし、パリの同時テロやシリアの内戦も起きなかったかもしれない。やはり甘いと指摘されるかもしれない。だが、少なくとも、テロとの戦いは今とはかなり違ったものになっていたはずである。

現実的には、イラク侵攻後の戦後処理をブッシュ政権が完全に誤ったのも罪深い。シーア派の亡命イラク人グループの言い分を当初ほぼ鵜呑みにした結果ではないかと筆者は想像しているが、その後、特にサダム・フセイン政権を支えたスンニ派のバース党員のパージを拙速かつ過大に実施したことは、アフガンでビン・ラディン容疑者を取り逃したのと同じくらいの大失敗と言ってよい。追放された者の相当数がその後の対米テロ活動やイスラム国に参加したと考えられるからである。

アフガンでもイラクでも、ブッシュ政権は、部族社会の複雑さと彼らの気性の激しさ、スンニとシーアの対立と怨念の根深さ、彼の地でそこら中に転がっている銃器や爆薬の脅威を、ことごとく過小評価し、戦後処理を誤った。

いや、そんなことは百も承知の上で、湾岸危機以来の大問題であったフセイン政権の除去に、ネオ・コンがここぞとばかりに乗り出したのが失敗の根源なのかもしれない。911とその後の対テロ戦争をネオ・コンがイラク攻撃の口実に安易に利用しただけという側面も否定できない。

もう元には戻らない

しかし、何を言ってももう遅い。パンドラの箱は開いてしまったのである。
今、現地は、一時期程ではないにせよ、なお、ぐちゃぐちゃの泥沼である。
そして、シリアでもイエメンでも内戦が続いている。
ヨーロッパはテロの恐怖と常に隣り合わせに暮らすことを余儀なくされている。

泥沼の戦争に疲れたアメリカは内向き志向を強め、”アメリカ・ファースト”政権を誕生させた。そして、隙を中国やロシアが埋めようと策動している。光明はまだ見えない。

最後に“もしも”をもう一度お許し願いたい。

“もしも”アフガンやイラクでの戦後処理が迅速かつ成功裏に終わっていたら、、、北朝鮮を巡る情勢はどうなっていただろうか?二つの戦争をあっさり片付け余力に溢れたアメリカの圧力を北朝鮮や背後の中国はどのように受け止めただろうか?
考えても全く詮無いことだが、今とはかなり違った可能性が高い。

あの日を境に世界は変わってしまった。もう元には戻らない。

(執筆:フジテレビ 解説委員 二関吉郎)

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