「あと3年は…」奥田瑛二が明かす津川雅彦、最期の100日間

  • 愛娘の誘拐、事業の失敗…波乱万丈の夫婦生活45年
  • 妻・朝丘雪路への献身的な介護の裏にあった兄・長門裕之の存在
  • 親交のある俳優・奥田瑛二「朝丘さんを追いかけたわけではない」

8月4日、78歳でこの世を去った名優・津川雅彦さん。

その約3か月前に先立たれた妻・朝丘雪路さん。

8月30日に放送した「直撃!シンソウ坂上」では、津川さんを兄と慕い、家族ぐるみで30年以上の付き合いがある俳優・奥田瑛二さんに坂上忍がインタビュー。これまで明かされることのなかった津川さんの「最期の100日間」を初めて告白した。

役者として津川さんのことを尊敬していたという奥田さんは、坂上から「どこに惹かれたのか?」と聞かれ「挫折」と答えた。

「津川さんの挫折から立ち戻って蘇ったこと。松竹撮影所に入って、撮影所をたらい回しされるようなことになった。それとお兄さん(故・長門裕之)が天才肌だから、世間の比較、兄弟を比較するものはあった。『俺はもうどうしたらいいんだ』と、津川さんとしては奈落に落ちて這い上がってきて、この人のことは死ぬまで見ていたいな」と奥田さんは語った。

「プレイボーイ」から「世界一のパパ」へ

父が日活スターの沢村国太郎、母が女優のマキノ智子という芸能一家で育った津川さん。

兄は言わずと知れた俳優・長門裕之さん。彼の勧めで津川さんは役者の道へと進んだ。

1956年には、石原裕次郎さんの弟役として映画「狂った果実」で本格デビューし、一気に注目を集めた。が、その後の仕事は低迷。一歩先を行く兄と比較され、悩んでいたという。

その後、32歳で出演した「必殺仕掛人」(1972年放送)が転機となり、2枚目俳優から悪役へと転身し、ブレイク。存在感のある演技で数々の賞を受賞するなど、日本を代表する名優となった。

一方、1935年生まれの朝丘さんは津川さんの4歳年上。父は日本画家の巨匠・伊東深水。

3歳から日本舞踊を学び、小学校は人力車で通うという桁外れのお嬢様で、憧れだった宝塚歌劇団に入団し、月組の娘役として活躍。

退団後は色気のある演技で女優として頭角を現し、宝塚で培った歌唱力を活かして歌手として「雨がやんだら」(1970年)などのヒット曲を持ち、紅白歌合戦に10回出場するなど、マルチな才能を発揮した。

1973年、朝丘さんはプレイボーイとしても名を馳せていた津川さんと結婚。

翌年には最愛の娘・真由子さんが誕生し、順風満帆な日々を送っていた。

しかし、1974年、深夜に津川さんの自宅に男が押し入り、生後5か月の真由子さんを誘拐。犯人は身代金受け渡し現場で逮捕され、真由子さんは41時間ぶりに救出された。

この事件を機に、世界一のパパになると決意した津川さんは、事件から4年後におもちゃの輸入販売会社「グランパパ」を設立。

最盛期には全国に20もの支店を構えるまでに成長した。

「グランパパ」が6億円の負債…最後は妻名義の自宅を売却

そんな津川さんはおもちゃだけでなく、イギリスで廃墟と化していたお城を日本に輸入していた。

「男の人は夢がある。なるべく男の夢には協力してあげたい」と朝丘さんのサポートがあったが、会社設立から30年、「グランパパ」が6億円もの負債を抱え、倒産の危機に陥った。

本物にこだわるあまり、少々値が張る「グランパパ」のおもちゃは世間のニーズから合わなくなっていた。

津川さんは「いろいろと悪いことが重なって、ギリギリまでしがみつきながら、まだ他にいい話があって、救いの手が伸びないか、見苦しく考えちゃってる。役者は死んだらおしまいだけど、『グランパパ』は僕が死んでも残る厄介なものなんです」と話している。

救いの手がないまま起死回生を図り、イベントには朝丘さんや真由子さんも駆けつけ、家族でこの危機を乗り切ろうとしていた。

津川さんは会社を救うため、大切にしていたアメリカ出身の画家、ノーマン・ロックウェルの作品を海外のオークションに出品することを決めた。

この画家の作品は10億円以上の値がついたこともあり、手放せば債務を帳消しにできるかもしれないと、最後の手段に打って出たが、絵画には約2億2000万円の値がついたものの、負債額6億円には届かなかった。

そして、瀕死の「グランパパ」を守るため、朝丘さんは自分名義の自宅を売却した。

「お家を売らなきゃいけなくなった」こうテレビのインタビューに答える朝丘さんの姿を坂上は「今まで見たことないような、腹が据わったというか。凄みを感じた」と話す。

ただ、当時を知っている奥田さんは「津川さんは泣いて感謝してました。涙を見ました。豪邸を売ってくれるなんて大きすぎるじゃないですか。そこは本当にありがとう、と感謝があったでしょうね」と明かした。

別居後、朝丘さんが認知症を発症…

借金返済のため、長年暮らしていた自宅を手放した家族はバラバラになってしまった。

結婚36年目で別居を選択した津川さんと朝丘さん。

別居中も津川さんと会っていた奥田さんは「津川さんが『すごい疲れてるんだ、だから合コンしたいな』と電話が掛かってくる。わかりました、と手配しましたけど、あれは人知の知るところではないです、津川さんと朝丘さんの関係は。娘さんは両方と仲が良くて、津川さんも朝丘さんと仲が悪いわけではない。やりたい放題、好き放題にまい進していくのが津川雅彦」と語った。

だが、朝丘さんがアルツハイマー型認知症を発症したことで、津川さんは再び朝丘さんと暮らし始めた。

日に日に認知症が進む朝丘さんと一緒に暮らし、自ら介護することを選んだ津川さんの決断の裏には、同じように認知症の妻を介護した兄の存在があったという。

2006年、長門さんの妻・南田洋子さんがアルツハイマー型認知症を発症。介護生活は4年に及んだ。

2008年に津川さんと出演した番組で、南田さんの介護をしている今が充実していることを明かし、「俺の生きがいになっている」と語っていた。

約1年半後、長門さんが脳出血で帰らぬ人に。愛する妻の後を追うように天国へと旅立った長門さん。

その姿を見ていた津川さんは兄と同じように、自ら妻を介護する道を選んだ。

夫婦生活45年目の今年4月27日、津川さんと娘に看取られて、朝丘さんは静かに息を引き取った。そして、朝丘さんの死から100日、追いかけるかのように津川さんはこの世を去った。

妻亡きあとの津川さん「あと3年だからね」

妻亡きあと100日間、津川さんは何を思い過ごしてきたのか。

朝丘さんが亡くなってから、津川さんと食事会をしたという奥田さん。

その時に津川さんが「こうやってみんなと飯食って、いろいろ話しているのが一番楽しい」と言ったという。

普段、津川さんが言わないようなこの発言に奥田さんは違和感を抱いたという。

その後、津川さんが亡くなる10日前にも奥田さんは会っているという。

酸素チューブを付けながらも、食欲はあり、意気軒昂に話をする津川さんが「(生きるのは)あと3年だからね」と言っていたという。

その言葉を聞いた奥田さんは「3年じゃない5年ですよ」と返したという。

津川さんの「3年」という言葉は生きようという気持ちの現れで、奥田さんは「まだやりたいこと、思いが途中のもの、俳優としての思い、映画への底知れぬ愛情もあるから」と話し、朝丘さんを追いかけたわけではないと否定した。

もし、朝丘さんに呼ばれていたとしても、奥田さんは「ちょっと待ってろ、と。もうちょっと、あと3年。気持ちはそうだった気がする」と話した。

さらに、津川さんを知らない若者に奥田さんであればどう説明するかと坂上に問われると、「俺が世間を見渡して、この人は最後の先輩、尊敬の先輩で俳優。年上の俳優はいるけれど、それはもうどうでもいい、それくらいすごい人」と熱弁した。

そして、奥田さんは「四十九日までは泣かないって決めているんで」と打ち明けた。

スタジオには津川さんと夫婦役をはじめ、長年に渡り多くの作品で共演した女優・三田佳子さんが登場。

「自分の姿を見ているような感じがして…」と涙をぬぐう三田さん。

「孤独感とか、生きてやらなきゃいけない役者魂!みたいなもの、遅まきながら私もここに命がある限り、やっていかなきゃいけないのかなとつくづく思います。私ももしかしたら、明日さよならって、ごめんねっていうかもしれないし」と語った。

また、俳優だけではなく津川さんが監督として携わった映画「旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ」について、三田さんは「津川さんは監督としてお兄さんを起用した。あの時の長門さんは本当に魅力的で、他の人には撮れない長門さんが出ていました」と懐かしそうに振り返った。

 

「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54

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