なぜ警察庁長官狙撃事件は未解決のままなのか。“オウム信者”と“自白した男”が不起訴の理由

カテゴリ:国内

  • 日本の治安を守る警察のトップが銃撃される、史上稀に見る凶悪事件
  • オウム信者の巡査長が自白するも、供述が移り変わり不起訴に
  • 服役中の男も自白するが、嫌疑不十分で不起訴、真相は今も闇の中

地下鉄サリン事件などで死刑が確定したオウム真理教の教祖麻原彰晃こと、松本智津夫元死刑囚ら13人の死刑が執行されてから、間もなく2ヶ月が経つ。
そんなオウム真理教が関係したと指摘されつつ、未解決のまま終わったのが、警察庁長官狙撃事件だ。日本の治安を揺るがしたこの事件は、なぜ未解決に終わってしまったのだろうか。

地下鉄サリン事件の10日後

國松警察庁長官(当時)

事件は1995年3月30日、オウム真理教が起こした『地下鉄サリン事件』の10日後の午前8時31分、國松孝次警察庁長官(当時)が荒川区南千住の自宅マンションから出勤するところで起きた。通用口を出たところで背後から拳銃4発を発砲された國松長官は、背中や腰などに3発をあび、何度も心臓が止まるなど、瀕死の重傷をおった。

公開された証拠の数々

犯行に使われた銃はコルトパイソンとみられ、弾丸はマグナム弾で、殺傷力を高めるため先端をくぼませた「ホローポイント」とよばれるものだった。

また現場には韓国の10ウォン硬貨と北朝鮮のバッヂが残されていた。警視庁は南千住署に捜査本部を設置、捜査に乗り出した。

國松長官を撃った男は、拳銃を発射した後、近くに停めてあった黒っぽい自転車に乗って逃走。年齢は30歳〜40歳前後、身長は170cm〜180cmくらいで、黒っぽい帽子に白いマスクを付け、黒っぽいコートを着ていたという目撃情報があった。
現場付近では、同一人物と見られる男が自転車で疾走する姿が複数目撃されていたが、その後の足取りは追えず、捜査は混迷を極め始める。

オウム真理教はマスコミ各社に「事件と無関係」と連絡

また、事件が発生した日、マスコミにある電話が掛かってきた。その内容は「オウム」に対する捜査を中止するよう求めるもので、要求が認められない場合、他の警察最高幹部などに危害が発生するという脅迫電話だった。

翌日には、「この事件は教団つぶしの陰謀だ」というような内容のオウム真理教名義のビラが配られていた他、別の事件で逮捕されていたオウム真理教の幹部が、信者が関与している疑いがあるようなことを話していたことから、この事件はオウム真理教による犯行とみて、捜査は進められることとなる。

「自分が撃った」と話した巡査長

事件当時の現場検証

警視庁はその後、マスコミに脅迫電話をかけたとしてオウム幹部の男を逮捕するが、証拠不十分で釈放。遅々として進まない捜査だったが、事件の翌年の1996年、ある男の供述から捜査は思わぬ方向に動き出す。

自分が撃った

そう証言したのは、なんと地下鉄サリン事件の捜査にも加わっていた警視庁の巡査長(その後懲戒免職)だった。現職の警察官が、長官を狙撃したのか。

この巡査長は、オウム真理教の在家信者だった。

調べでは、事件翌年、麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚が、初公判で自分の責任を回避する意味あいがある「聖無頓着(せいむとんちゃく)」と発言したことを知って憤慨し、「銃を神田川に捨てた」ことなど犯行の具体的な状況などを話し、事件への関与を認める供述を始めたという。

しかし、警視庁はこの供述を前に“迷走”をはじめる。

具体的な供述を得ていながら、半年後にマスコミに対して「犯人がオーム信者(※原文ママ)の警視庁警察官」などという内部告発があるまでの間、警視庁は供述の裏付け捜査を怠り、警察庁にすら報告をしていなかったのだ。

昼夜問わず行われた神田川の捜索

重い腰を上げた警視庁は、神田川の捜索を2ヶ月にも渡って進めるが、結局凶器の拳銃が見つからなかったことや、供述に不自然な点が多かったことで、元巡査長の事件への関与を裏付けることができず、立件は見送られた。

一連の失態で、当時の警視庁公安部長が更迭、警視総監が辞任する事態となった。

逮捕されたオウム信者の4人

2004年、事件発生から9年が経ち、再び捜査が動き出す。

乏しい物証の中、関係者の証言を積み重ねるなどして、元巡査長の他、教団幹部など合わせて4人が逮捕された。
元巡査長が事件直前に現場の下見をしていた際、職務質問をした警察官がいて、この警察官が名乗り出たことなどから少しずつ進展。事情聴取などを進め、実行犯の最終的な特定ができていない上での立件となった。

元巡査長が当時使用していたコートなどを大型分析施設「SPring-8」で分析したところ、事件で発射された銃弾と同じ成分の微粒子が検出され、元巡査長は「別の信者に貸したが、誰に貸したかは覚えていない」や、「当日コートを現場へ持っていき、信者に似た男にコートを手渡した」、「他の信者らと3人で現場に下見に行った」などと供述したと、当時報道されているが、逮捕された4人全員が否認したり、実行犯ではないと話していた。

その後、元巡査長は「自分が撃ったような気がする」などと供述を一転させ、東京地検は「教団の組織的犯行の疑いはあるが、これまでの証拠では、実行犯を特定し、共犯関係を認定することは困難」として、起訴を見送り釈放。
その後在宅で4人の取調べを続けたが、最終的に元巡査長の供述は信用できないとの結論に達し、全員を不起訴にした。

このことで、逮捕に踏み切った警視庁の捜査手法も問われることにもなってしまった。

時効前の必死の捜査

凶器も、信用に足る供述も得られないまま、時効が近づいていった。

警視庁は時効前年の2009年、改めて不起訴となった元巡査長への事情聴取を再開し、公安部幹部が直接話を聴くなどしたが、元巡査長は曖昧な供述を続けていた。
元巡査長のコートやメガネ、マスク、机などからは、拳銃を発砲したときに出る火薬の成分の一部などが検出されたことがわかっていたが、元巡査長は「コートは人に貸しただけで、自分はやっていない」と容疑を否認。

さらに時効直前の2010年の1月には、当時収監中だった松本元死刑囚に、事情聴取を要請したが、自分の房から出ることを拒否したため、実現しないままに終わった。死刑囚への事情聴取は極めて異例だった上、そもそも警視庁が松本元死刑囚に接触するのは、2004年以来だったため、注目を浴びた。

迎えてしまった時効

2010年3月30日、事件発生から15年が経ったこの日、延べ50万人の捜査員を投入し、懸命の捜査を続けてきた警視庁は犯人逮捕には至らず、時効が成立した。

警視庁の当時の公安部長は、異例とも言える時効成立後の会見を行い、「事件が未解決に終わった理由につきましては私どもの力が及ばなかったということに尽きる。これまでの捜査結果からこの事件はオウム真理教の信者グループが教祖の意思の元に組織的計画的に敢行したテロであったと認めました」と、オウム真理教による組織的なテロであるとする見解を発表し、14ページに及ぶ捜査結果をホームページ上で公開した。

これに対し、オウム真理教から名前を変えた「アレフ」は、「確たる証拠もなく、教団による組織的犯行と結論付けていて、極めて不公正」などとして、ホームページからの削除を要請。また「捜査結果を公表したのは名誉毀損にあたる」などとして、東京都と当時の警視総監に対し損害賠償などを求める裁判を起こし、東京都はアレフに対し100万円の支払いを命じる判決がくだった。

時効を迎え撤去される情報提供を求める看板

「長官を撃った」と自白した別の男

一方、自ら「長官を撃った」と事件への関与を雑誌などに話していた、現金輸送車の襲撃事件で岐阜刑務所に服役中の、オウム真理教とは無関係の受刑者の男(当時80歳)がいた。FNNの取材に対しても、自らが撃ったと話したこの男に対して、警視庁は何度も事情聴取を行っていたが、「供述内容に実際の犯行状況と一致しない内容が多数認められる」として、捜査を打ち切っていた。

2010年10月、すでに刑事事件としての時効は成立していたが、この受刑者の男は事件後に海外渡航していた期間があり、時効が延長されていたため、都内の弁護士が受刑者について、殺人未遂容疑で東京地検に告発状を提出し受理された。

受刑者の男は、凶器となった拳銃や弾丸の入手の経緯や、事件直前に現場を下見した際の状況、犯行当日の逃走経路などを供述していたものの、東京地検特捜部は「自白はしているが供述の信用性に疑いがある」などとして、嫌疑不十分で不起訴処分とした。

犯人の行方は…?

2011年、警視庁は発生当時の捜査員や捜査幹部、歴代の公安部幹部ら、約100人から聞き取りを行うなどしてまとめられた事件捜査に関する検証結果を公表した。

この中で、警視庁は捜査の反省点として、「聞き込みなど初動捜査の不備」「犯行を告白した元警察官の供述に対する裏付け捜査の遅れ」「科学捜査の不足」の3点を挙げている。しかしここでは、元巡査長の聴取を半ば軟禁状態で続けたことなど、捜査手法自体が適切だったかについては触れられていなかった。また、検証の過程で元巡査長の存在自体が隠されていたことについて、刑事部幹部から「おかしいのではないか」との声も挙がったという。


日本の治安を守る警察の“最高責任者”である警察庁長官が銃撃されるという、日本を揺るがした事件。実行役は特定されず、真相は今も闇に包まれたままだ。

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