闘争から共存へ… 成田空港のこれからは

カテゴリ:国内

  • 開港直前に管制塔が襲われ開港が延期となった
  • 住民と話し合いを重ね共存への道が見出された
  • これからの成田空港の未来は話し合いで解決されていく

成田空港は、今年で開港から39年となり、利用客が10億人を突破した。
しかし、開港までには紆余曲折の歴史があった。

その「成田空港の歴史」を3回に分けて連載する。

3回目の今回は成田空港が開港してから地域と共存していくまでの日々を紐解く。

【第1回】成田空港の利用客が10億人突破! 開港前に反対運動はなぜ起こったのか
【第2回】死傷者が多数に…なぜ成田空港の反対派は過激に進んだのか
【第3回】闘争から共存へ… 成田空港のこれからは (この記事)

開港前夜の成田空港

1978年3月30日、当初の計画の半分の1滑走路と1ターミナルで成田空港は開港することになった。

そして開港は世界中にも発表されていた事もあり、大変な注目を浴びていた。

しかし反対派には今までの経緯から開港は許されるものではなく、開港予定日直前の3月26日、スタッフが開港に向け訓練をしている最中に反対派と支援する新左翼の過激派グループに襲われる。

管制塔から少し離れたところに前日から鉄塔を建てそこで機動隊と争う部隊や、火炎瓶などや竹槍などで武装して管制塔を取り囲む機動隊と争う部隊、また地下から管制塔に向かう部隊など複数に分かれて、過激な反対運動を起こす。

反対派が乗り込んだ管制塔

反対派は機動隊の隊舎を放火したりするなどして機動隊の戦力を分散させ、結果として地下から管制塔に向かったグループが管制塔内部に入り込み、管制室を2時間に渡って破壊した事で、開港は延期を余儀なくされる。

この事件で逮捕者は、管制塔に突入した部隊や空港周辺各所のゲリラ部隊など合わせて168人に及んだ

この事件は開港直前の取材のために訪れていた世界のマスコミにも知られることとなり報道され、日本への信頼は失墜した。

この直後には現在の千葉県警察成田国際空港警備隊の元となる新東京国際空港警備隊が設置され、継続的に反対派に対応していくこととなる。

破壊された管制塔内部

その後も開港が遅れたため車両基地で運行を待っていたスカイライナーが放火されるなど、周辺の関連施設への襲撃や周辺での激しい衝突などを受けながらも、1978年5月20日に成田空港はなんとか開港を果たした

この時運輸大臣だった福永健司氏は開港の会見で「日本では難産の子は強いと言うが、この空港をなんとか健やかに成長させていきたい」と話した。

計画から16年、死者も多数出て、逮捕者も数百人出た上での“難産”発言だったのだろう。

妨害に使われたアドバルーン

開港後の成田空港

開港したあとも反対派は空港周辺でタイヤを燃やして黒煙を上げたり、アドバルーンを上げたりして妨害工作を続けたりするなど、散発的にデモをおこしては機動隊と衝突を続けていた。

一方、政府・公団側は未完成の二本の滑走路建設に向けての二期工事をすすめるために、また長く続く争いを収めるべく、反対派と水面下で話し合いを続けていた。

そして開港翌年の1979年には“一旦二期工事を凍結すること・土地の強制収容をしないこと・過去の誤りを陳謝すること”の3つの覚書を交わし、再度話し合いを進めた上で二期工事をすすめる事になっていた。

しかしその直後に新聞社がその覚書にない誤った表現などを使ってこれを報道したことで、反対同盟側は反発し「一切の話し合いは無かった」と表明、全ては立ち消えとなってしまった。



その後も第二期工事の現場にあった団結小屋撤去の攻防は長く続けられていたが、1988年、二期工事のために必要な用地の収容手続をする「千葉県収用委員会」の会長が新左翼に襲撃された。

その後委員の住所などが新左翼の機関紙などで公開したことから全員が辞任し、委員会が機能不全になったことから、行政代執行などができなくなる事態となってしまった(その後2004年まで収用委員会は再開されなかった)。

対話の道の模索

このように長く長く続く争いの日々の中、一部農民に「我々の世代で反対運動を終わらせよう」という声も出てきた。

政府・公団もこの声に呼応して1990年、運輸大臣と反対同盟の対話が行われ、そこから1991年の成田空港問題シンポジウムが行われることとなる。

ここでは国・反対同盟・公団・県が参加し、何がいけなかったのかを徹底的に話し合うなどして、その後1993年から開かれた成田空港円卓会議で今後の空港整備について話し合った。

そこで出た答えは“対立構造の解消・新しい滑走路の用地は話し合いで作る・3本目が必要だったら再度話し合う・騒音対策や落下物などへの取り組みをすること・地元への振興策を実現すること”などであった。

この「空港と地域とが共存する」という答えが出たのは、空港が計画されてからなんと32年後のことであった。

空と大地の歴史館

今後の成田空港は?

その後、少なくも残る反対派の襲撃などを受けながら、二期工事の完成を求める署名が26万人分集まるなどして、計画から40年経った2002年に第二滑走路の運用が開始された



これまでの成田の闘争の歴史が唯一身近に感じられたのが、2015年3月まで残されていた検問制度だろう。

これは新左翼や反対派の過激な運動を防ぐために作られ、今は代替として監視カメラなどが使われるようになった。

2008年には迫撃砲が空港敷地内に打ち込まれるなど、まだ完全に終わった話ではないのだ。



この歴史を後世に残そうと、成田空港が2011年に作ったのが、「成田空港 空と大地の歴史館」だ。

ここでスタッフとして働く興村猛さん(72)は、新東京国際空港公団の新入社員一期生として勤務し、成田闘争の際も実際に目の当たりにしてきた。

今でも年に数回近隣の駅でデモがあり、空港反対派がいることを認めた上で言う。

「地域の人からの理解を頂いて、今やっと実際に地域と共存できるような空港になってきたのかなと思っている。
最近では元々反対派として活動していた人も含め地域の人から提案を頂いて、新しい滑走路を立てる計画まで動き出そうとしている。
当時賛成をした人、嫌々ながら賛成に動いた人、反対をし続けた人など様々な人がいるが、そのすべての人達の想いのためにも、地域の人が自慢できる空港を維持してほしい。
そのために会社には努力をしてほしい」

成田空港周辺では、羽田空港の24時間運行が決まった際、成田空港が旅客中心でなく貨物中心の空港になってしまうのではないかという不安感が広がったという。

都心部から距離があり、陸上にあるゆえに周辺の住民の生活を考えなければいけない成田空港は大きな岐路に立たされているのかもしれない。

しかし今、当時反対派として活動していた人も含め、成田空港のために第三滑走路を作る要望が住人側から出たという。

あの闘争の歴史を乗り越えてきたからこそ、今、共存共栄を続けている成田空港。

必ずや住民との会話で将来に向けた解決策が見いだされるのだろう。

【第1回】成田空港の利用客が10億人突破! 開港前に反対運動はなぜ起こったのか
【第2回】死傷者が多数に…なぜ成田空港の反対派は過激に進んだのか
【第3回】闘争から共存へ… 成田空港のこれからは (この記事)