支えてくれる人たちがいるから、頑張れる。アスリートたちが過酷な練習にも耐えられるのは、サポートしてくれる人がいるからでもある。

2月2日放送の「ジャンクSPORTS」(フジテレビ系)では、「あの人に感謝スペシャル」と題し、陸上・井谷俊介選手、野球・上原浩治さん、K-1・武尊選手、ソフトボール・長﨑望未選手が“大恩人”へのエピソードを明かした。

 
 
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事故で負傷した右足の切断を自ら決意

パラ陸上100メートルの井谷選手。右膝下の切断からアジア王者にまで上り詰め、「東京パラリンピック」出場を目指す、今注目のパラアスリート。

彼が一躍注目を浴びたのは2018年10月、インドネシア2018アジアパラ競技大会100メートル。当時のアジア記録、11秒70を樹立して優勝した。

1995年に三重県で生まれた井谷選手。彼が幼い頃に夢中になっていたのは陸上ではなくF1。小学2年生の時に初めて観戦し、カーレーサーになることを夢見た。

大学生になるとサーキットでアルバイトを始め、レーサーへの道を追いかけていく。しかし2016年、大学2年生の冬に井谷選手が乗ったバイクに車が衝突。病院へ救急搬送され、手術は10時間にも及び、意識を取り戻したのは事故から4日後。

井谷選手は「最初は全く理解ができなくて、なんで病院なんだろうって。体中が痛くて。足が“そうがい固定”されていて、金具が刺さっていた」と当時を振り返る。

右足は「開放粉砕骨折」で足は黒く変色し、壊死(えし)が進んでいた。「気づいたときに『これ足動かないな』って思って。つま先が動かなくて、病院の先生が足を触りながら小さい声で『ダメかもね』ってボソッと言うんです」。

 
 

そんな中、井谷選手は「痛くて、痛くてたまらない。単純にこの現状の痛みから逃げ出したい」と足の痛みに苦しみ、「早く切り落として欲しい」と事故から8日後、右足の膝から下の切断を決意した。

当時、井谷選手を見守っていた母・久美子さんは「“切断”という言葉は今でも使うのが怖いのですが、痛みで毎日のたうち回っているのを見るのは辛かったです」と話した。

しかし手術が迫ると「自分の中で切る覚悟はついているつもりでも、勢いで言っているので実際は怖くて。恐怖感や不安は今まで経験した中で一番強かった」と明かす。

不安を抱えながら手術は行われ、井谷選手が目を覚ますと「周りには母、兄、親戚のおじちゃん、おばちゃんも来ていて。みんなの顔を見たときは涙がすごく出ました」と振り返る。

それから母・久美子さんは、義足となった息子を励まそうと探し出した、身体にハンディキャップがある人たちのランニングクラブ「大和鉄脚走行会」に参加。「一生懸命走って、みんな笑顔で楽しんでいる。その姿を見たときに、自分も走りたいと強く思った」と、事故から約3ヵ月後に井谷選手は初めてジョギング用の義足を着けた。

その時のことを井谷選手は「走ったときに耳のところで風が流れる音を聞くと、すごく幸せな気分になって。楽しくて笑顔になれた。自分の中で人生が変わるタイミングだったかもしれないです」と振り返る。

脇阪寿一との出会いが人生を大きく変える

 
 

義足で走ることの楽しみを知った井谷選手は、抱いていたレーサーへの憧れとは別に、パラリンピック出場という新しい夢を抱き始める。

そして、日本を代表するレーサー・脇阪寿一さんとの出会いが、井谷選手の人生を大きく変えていく。

サーキットでのアルバイトをきっかけに、脇阪さんを紹介されていた井谷選手。レーサー、そして陸上でパラリンピックに出場したいという2つの夢を持つ井谷選手に、脇阪さんは「カーレースはいつでも僕が与えてあげられる夢。パラリンピックはあと3年しかなかったので、時間的にまずパラリンピックを目指そうと勧めました」と語る。

そして脇阪さんは、井谷選手のために競技用の義足を負担。さらに、陸上のオリンピック選手らを指導するコンディショングコーチ・仲田健さんを紹介するなど、パラリンピックを本気で目指せる環境を整えた。

井谷選手は「脇阪さんがいなかったら何も始まっていなかった。全てがなかったですね。一緒に成長していこうと言ってくれて、始まったときからここまで、全てが感謝の気持ちでいっぱいです」と明かす。

 
 

そして、初めて競技用義足を着けてから563日後の2018年5月、パラアスリートとして迎えたデビュー戦。パラ陸上を始めて約1年半で出場した初めての大会でいきなり優勝。さらに、昨年8月ヨーロッパの一流選手が集まる大会で、自身が持つアジア記録を昨季2度目の更新。11秒47を記録し、「東京パラリンピック」での活躍が期待されるパラアスリートへと成長した。

井谷選手は「東京パラリンピックでメダルが欲しいです。脇阪さんに対しても恩返しになると思いますし、母や友人、みんなが笑顔になってくれたら嬉しいです」と意気込んだ。

スタジオでは、井谷選手をサポートする脇阪さんも登場。番組MCの浜田雅功さんが脇阪さんに井谷選手のレーサーとしての能力について聞くと、「彼は体をどう使えば速く走ることができるか考えられるので、レーサーとしても大成すると思います」と話すと、隣で井谷選手は「やりたいです!」と笑顔を見せた。

娘の夢をサポートしてくれた母親

 
 

東京オリンピックに向けて日本代表入りを目指す天才打者、女子ソフトボール・長﨑望未選手。

そんな彼女が感謝しているのは、女手一つで育ててくれた母親。

1992年、愛媛県に生まれた長﨑選手は兄2人、弟1人の4人きょうだいの長女として育つ。しかし、小学2年生の時に両親が離婚。4人の子どもたちを1人で養うため、母・喜代美さんは仕事に追われる日々で、長﨑選手は寂しい少女時代を送った。

そんなときに出会ったのがソフトボール。
多いときは7つも仕事を掛け持ちし、自分の生活を犠牲にしながらも常に子どもを第一に考えてくれた母のため、長﨑選手は「絶対にソフトボールで実業団に入って、お母さんを楽にさせる!」と決意。

長﨑選手は「私自身、ソフトボールしかないと思っていましたし、ソフトボールでお母さんを楽にしてあげることが一番の近道だと思っていた」と明かす。

その誓いのもと、長﨑選手は努力を重ね、中学では県選抜として全国大会に出場。高校は親元を離れ、強豪・京都西山高校へ進学。

そして、「母にもちょっと楽をさせてあげられるスタートになったのかな」と語るように、2011年には実業団の名門・トヨタ自動車ソフト部に入部。1年目でホームラン王、打点王、新人賞、ベストナインと数々のタイトルに輝いた。

さらに、日本代表として出場した2018年のソフトボール世界選手権では1試合で3ランホームランを2本打つなど大活躍。母親とともに目指すオリンピック、長﨑選手はこれからも走り続けていく。

 
 

スタジオでは浜田さんが「お母さんスゴイね!」と娘と母親の強い絆を称賛。長﨑選手も「4人兄弟だったんですけど、4人とも好きなことをさせてくれたので頭が上がらないです」と明かす。

また、VTRで触れていたオリジナルのスポーツドリンクについて話が及ぶ。練習では周りがスポーツドリンクを飲む中、家計に余裕がなかった長﨑選手の母親はある工夫をしていた。その工夫について長﨑選手は「『スポーツドリンクを飲みたい』って言ったらお母さんが『分かった』と言って。だったら、ちょっと甘いのって言って水に砂糖を入れて『これでも持って行きな』とかもあり、“魔法の水”と言っていました」と笑った。

他、元プロ野球選手の上原さんは、野球人生を大きく変えた大阪体育大学の監督、K-1の武尊選手は道を踏み外した時に考え方を改めさせてくれた空手道場の恩師をそれぞれ“大恩人”として挙げた。

『ジャンクSPORTS』毎週日曜日夜7:00~8:00放送