常に揺れ動く、生徒を取り巻く環境
京都にある朝鮮中高級学校。
こうした朝鮮学校は、歴史的な経緯から日本で生活している在日コリアンにとって、自らの言語で学校生活を送りルーツを学ぶことができる数少ない場所だ。
ここに通う生徒たちの中には10年前に起きた「ヘイトスピーチ」事件で人種差別の言葉を直接投げつけられた子供もいる。
10年が経った今、彼らが事件と向き合う姿を取材した。
京都朝鮮中高級学校。約150人の生徒が通い、朝鮮籍と韓国籍の生徒が大半を占めている。
カリキュラムは、日本の学校とほとんど変わらない。
ただ、授業を含め学校生活では朝鮮語を使い、「朝鮮半島の歴史や地理」など独自の科目も勉強している。
話を聞くと、生徒たちは在日コリアンとして生きていく中で様々な軋轢を感じていた。
朝鮮学校の生徒:
小学校の時に『朝鮮学校に通ってます』というと嫌な顔をされたことがある。
朝鮮学校の生徒:
交流会でちょっと気に食わないからって『これが朝鮮のやり方か』と後ろから急に言われた。
かつて女子生徒は民族衣装のチマチョゴリを着て通学していたが、チマチョゴリが切られる事件が相次いだことなどから、今はブレザーで登校し、学校で着替えている。
生徒を取り巻く状況は、拉致事件など日本と北朝鮮の関係の中で、常に揺れ動いている。その点について学校側は…。
京都朝鮮中高級学校・教務部長 ムン・ボンスさん:
もちろん拉致はあってはいけないことだ、そういうことをした歴史があるんだっていうことは、子供たちに話をします。そこを変にこだわってて拉致を肯定するとかは全くありません。
当時「小学生」…10年前のヘイトスピーチ事件
11月のある日、高校3年生の社会科で、「在日コリアンと日本社会の関係」について考える授業が始まった。
テーマの一つは、「在日特権を許さない市民の会」=在特会などが起こした、10年前のヘイトスピーチ事件だ。
在日コリアンの子どもたちが通っていた「京都朝鮮第一初級学校」は、校庭が狭いため、隣接する公園を運動場として使っていた。
突然押し掛けた男たちは、学校が公園を不法占拠しているとして、一時間近く差別的な言葉を浴びせ続けた。
罵声の数々は、教室まで届いていたという。
当時教室にいた生徒(18):
先生が慌てだして、ただ事じゃないことが起こってるなっているのは思っていました。スパイの子供と言われたのが一番衝撃的でしたね。
この事件で、在特会の当時のメンバーら4人が威力業務妨害などの容疑で逮捕され、全員の有罪が確定した。
また、学校が起こした民事裁判でも一連の行為が「人種差別」と認定され、在特会側に損害賠償を命じる判決が確定した。
その時、教師は、母は…何を思ったか
こどもたちは、事件について話したことは、ほとんどなかったという。
裁判などで“差別”と向き合った人たちの思いを聞くため、生徒たちは、当時の関係者を訪ねることにした。
第一初級学校の教師をしていたキム・チソンさんは、罵声を浴びせるメンバーの対応に当たっていた。
京都第一初級学校・教師(当時)キム・チソンさん:
相手(在特会)はみんな笑いながら帰ってました。『また来るな』って。教師としては、すごく虚無感というか、この先どうなるんだろうと心配と不安がありました。
事件の経緯を話し終えたチソンさんは、当時の子どもたちに聞けずにいたことを切り出した。
京都第一初級学校・教師(当時)キム・チソンさん:
この事件を通して、朝鮮人というものをどう考えるようになりましたか?
京都朝鮮中高級学校の生徒(18):
『在日朝鮮人』とインターネットで検索したとき、最初ゾッとしたというか、私たちはこんなことを言われる存在なんだと心臓バクバクというか、あまりにも怖かった。一方で、襲撃事件とかインターネットで検索したことは、自分とはどんな存在なのか学ばせてくれた一つの要素です。
現実の暮らしの中でも、そしてネット空間でも、子どもたちを取り巻く罵詈雑言。
それでも一人一人、事件と向き合ってきたのだ。
生徒たちは、裁判に参加した母親たちにも話を聞きに行った。
母親らはヘイトスピーチが壊したものは、在日コリアン社会と日本社会が築いてきた信頼関係だったと感じている。
母親の会・会長(当時):
(子供を)外歩かすのが怖いとか、スーパーで買い物してたら『オンマ(お母さん)』って言われるのが怖いとか、(在日コリアンだと)バレたらどうしよとか、そんなこと、(それまで)私一切思ったことないんです。でも、そういうふうに社会のことを信じられなくなるっていうのが、ヘイトスピーチの1番怖いところやなって思っていた。
そして、社会との向き合い方を、こう考え直したと語った。
『いや、ちょっと待てよ。隣近所のおばちゃん、やっぱり優しいやん』とか気づくわけですよ。私らが日本社会にヘイトスピーチを受けたから日本人怖いっておもっちゃった。日本社会怖い、違う。日本じゃなくて、個人個人を見ようって。『朝鮮人も、1人1人日本人を見ようよ』って。そう思えて初めて回復しました。
今、高校生になった少女は、母親が当時どのような思いでいたのか、ほとんど聞いたことがなかった。
帰り道、二人はそれぞれの思いを打ち明けるように話し合った。
少女の母親:
(事件を)思い出させなくしようというのがあって、たぶん思い出していいことはないやろなって。
少女(18):
むしろ私は、オンマ(お母さん)が裁判とかに関わってるのを誇りに思ってた。
少女母親:
うそー。嫌がってたで、(裁判を)やらんとってって。
少女(18):
(ヘイトスピーチを)直接見たから、(お母さんさんが)自分たちと同じことされるんちゃうかなって思って。
10年後の後輩へ 手紙を書く
事件から丸10年をむかえた日。
生徒たちはこれまで授業を通じて感じたことを教室で発表した。
少女(18):
最後の裁判では、人種差別と民族教育の侵害が認められて勝ちました。
同級生:
たくさんの大人たちの助けがあって私たちは、何の心配もなく学校に通えました。高校を卒業したら次は私たちが守る側にならなきゃいけないため、『子どもたちを守る大人は私たちだ』と書きました。
『してもらったことを次の世代に返したい』
生徒たちは、10年後の後輩に向けて手紙を書いた。
「あなたたちは孤独に戦っているのではなく、周りに助けてくれる人たちがいて、もちろん僕もいるよ」
「日本人に自分が通う学校のことを話すときすぐに『朝鮮学校』って言える?堂々と言えるようになっていればなと思う」
「堂々としたらいい」
10年前、子供たちの目の前でまき散らされた差別の種。
『大丈夫』
日本社会がその言葉をかけるのに、あとどれだけの時間が必要なのだろうか。
(関西テレビ)