両親の母校である長崎大学から講演の誘いを受け、故郷長崎を55年ぶりに訪れた。僕がこのプライムオンラインで何度か長崎の事を書いたのがきっかけで呼んでくれたのだ。

プライムオンラインをきっかけに各地で講演
プライムオンラインをきっかけに各地で講演
この記事の画像(7枚)

原爆投下の時

僕の母は長崎生まれ。1945年8月9日11時過ぎに原爆が落ちた時は、たまたま家の外に立っていたが、稲佐山が影になって被爆しなかった。またそれまで長崎には何の縁もなく、当時旧制山形高生だった父は「爆心地にはもう生物は住めない」という新聞記事を読んだが、その1年後、新聞で爆心地にタンポポが咲く写真を見て、「なんだ生物が住めるじゃないか」と考え、長崎大医学部に入学した。

この幸運な母とのんき?な父が出会って(母は看護士)、僕は原爆が落ちたちょうど14年後の1959年8月9日に長崎大学病院で産まれた、という話をマクラに、北朝鮮の核ミサイル開発を取材していて、過去の歴史に過ぎないと考えていた原爆が「そこにある危機」であることに気づいた、という話など38年間の記者活動で学んだことをしゃべった。

自分の頭でしっかり考え表現する高校生

聴衆は大学生や大学職員のほか、一般の方々も混じっている。高校生もかなりいた。質疑応答の時間になり、最初はなかなか手が上がらなかったが、そのうち緊張が解けたのか、高校生が次々に手を上げた。質問するのはなぜか全員女子で、しかも鋭い質問ばかりだ。

ある女生徒からは「GSOMIAの破棄のような間違った決断をなぜ一人のリーダーがしてしまうのか」と聞かれ、「実は大統領制という政治体制が文在寅にせよトランプにせよ、問題が多く、日本のような議院内閣制の方が民主主義としては優れていると思う。ただ議院内閣制の国は意外に少ない」と答えた。

するとすぐに別の女生徒から手が上がり「議院内閣制の方が優れているのになぜ少ないのか。どの国も議院内閣制に移行すればいいではないか」と突っ込まれた。

これまでいろいろな人を相手に講演してきたが、これほど鋭い質問攻めにあったのは初めてだった。長崎の女子高生恐るべし、である。こういう場を作っている長崎大もエラい。

核心をついた鋭い質問をしてくれた女子高校生たち
核心をついた鋭い質問をしてくれた女子高校生たち

最近の子供の思考力が落ちている、などと言われるが本当だろうか。以前母校の高校で講演した時も鋭い質問ばかりで驚いた。大人相手の講演だと居眠りする人も多いし、質問自体が少ない。少なくとも僕が接した高校生たちは自分の頭でしっかり考えて表現していた。

文科省は大学入学共通テストで国語と数学の記述式の導入を見送った。理由は採点者の質の確保や受験生の自己採点の難しさらしいが、記述式というのはそもそもそういうものではないのか。公平性にこだわるあまり、思考力や表現力を伸ばすという肝心なことを忘れてやしないか。

まあいい。政治家やメディアが教育を政局のネタにして「改革しろ」「いややめろ」と騒いでいても、考える子は考え、表現する子は表現している。日本の未来はそんなに暗くはない、と思った。

日本の平和を守る為に

滞在中、爆心地のすぐそばのホテルに泊まったので、翌朝付近を散歩した。日本人の徴用工や、朝鮮人らの慰霊碑があり、爆心地公園では翌日に予定されていたローマ教皇の訪問の準備をしていた。

平和公園に行き平和祈念像を見た。子供の頃の記憶では、広い公園の中に見上げるように大きい像が立っていて少し怖かったのだが、行ってみると公園は意外に狭く、像も小さかった。

子どもの頃には「怖い」と感じた平和記念像が、意外にも「小さく」感じられた
子どもの頃には「怖い」と感じた平和記念像が、意外にも「小さく」感じられた

平和祈念像を見ていたら、2年前の8月9日にこの場所で、長崎の被爆者団体の代表が安倍首相に「あなたはどこの国の総理ですか。私たちを見捨てるのですか」と詰問したことを思い出した。日本政府が核兵器禁止条約を批准しなかったことに抗議したのだった。唯一の被爆国である日本が核兵器禁止を唱えなくて誰がするのだ、ということだろう。

爆心地を流れる下の川(しものかわ)当時は遺体が折り重なっていた
爆心地を流れる下の川(しものかわ)当時は遺体が折り重なっていた

ただこの批判は理想ではあるが現実的ではない。北朝鮮、中国、ロシア等が核廃絶に応じるとは考えられない以上、米国の核抑止力は日本を守るため、日本人の命を守るために欠かせないものだからだ。見捨てるとか、見捨てないとかそういう話ではない。核攻撃からこの日本を守らなければならないのだ。

そのためには集団的自衛権の容認は必要だったし、憲法9条の改正もやった方がいいのではないか。爆心地を歩きながら日本の平和を守るために我々がやらねばならぬことについて考え続けた。

母の命を救ってくれた稲佐山
母の命を救ってくれた稲佐山

帰る途中、タクシーの運転手さんに「稲佐山はどれですか」と聞くと、「あそこですよ」と指さし、車を停めてくれた。母の命を救ってくれた小さな山に一礼して空港に向かった。

【執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫】

「平井文夫の還暦人生デザイン」すべての記事を読む
「平井文夫の還暦人生デザイン」すべての記事を読む
平井文夫
平井文夫

言わねばならぬことを言う。神は細部に宿る。
フジテレビ報道局上席解説委員。1959年長崎市生まれ。82年フジテレビ入社。ワシントン特派員、編集長、政治部長、専任局長、「新報道2001」キャスター等を経て現職。