平成に起きた事件・事故・災害などの現場を撮影したカメラマンが自分の目で見つめ記録した現実を、後輩カメラマンが話を聞く。シリーズ第二弾は安部裕 元フジテレビ報道局カメラマン。

“偶然”山一証券自主廃業会見で迫力ある映像を撮影

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安部裕(52)。現在、日本大学芸術学部の放送学科で未来のテレビマンを育てている。平成9年(1997 年)11月24日、安部さんは山一証券の自主廃業会見を撮影した。社員を思いやり涙ながらに語る野沢社長の会見は世間の大きな注目を集めた。

--会見の前に山一證券の外観を撮っているのですが、その記憶はありますか?

安部さん:
全くないんだよね。さっき映像見たけど、全然記憶にない。覚えているのは、会見場に入って行って人がいっぱいいるな。フジテレビ2カメかよと思ったの。普通の会見だからね。センター1カメあればいいじゃん。俺いらないじゃんって思って撮り始めた。撮り始めて前を見たら、隙間が見えたので、前のスペースに行ってみようと。あそこに行ったら絶対に他の人と違う画が撮れるなって思ったの。

この日、フジテレビは会見を2台のカメラで撮影していた。センターポジションに1台、そして、サイドポジションから安部さんが撮影することになった。

テレビカメラマンは、通常の会見であればカメラを三脚につけて会場の一番後ろから撮影する。その前に記者が椅子に座って会見を聞き、さらにその前に新聞や雑誌のスチールカメラマンが地べたに座って撮影するという態勢がよくある記者会見の撮影スタイルである。
安部カメラマンは会見の途中で三脚からカメラを外して、スチールのカメラマンと同じ位置に。つまり最前列まで行って座り込むような体勢で撮影することを選択したのだ。

会見場イメージ
会見場イメージ

安部さん:
寄りすぎかなと思ったけど、多分報道であんなにアップってないと思うんだよね。
情報番組はアップ目が多いから。それでずっとそのアップをキープした

安部さんが撮影した映像
安部さんが撮影した映像

安部さんはずっと情報番組やドキュメンタリー番組で活躍したカメラマンで、当時報道に所属していて偶然この会見を撮影したのだ。

安部さん:
多分僕がずっと報道のカメラをやっていたら、あの画撮ってないよ。
ずっと報道カメラマンもしくは報道カメラマンなりたかったら、おそらくあそこで前に行くのは報道の常識ではありえない
要するに記録するって意味があるわけじゃん報道って。だからずっと回すわけじゃん。
そのルールさえ分かってなかったから。ずっと報道にいたら後ろから記録として撮っていただけだけど。
そんなルール知らないから。だから途中で止めて前に行けた。
本当の報道カメラマンだったら無理だと思う

安部さんが撮った映像と会場後方にいた報道カメラマンが撮った映像を比較すると違いは明らか。間近で撮影した安部さんの映像では野沢社長の顔が大きく画面にアップされ、迫力に満ちている。

その後、安部さんは報道からの異動を希望し、ドキュメンタリーや情報番組のカメラマンとして活躍した。

東日本大震災で自ら志願して現場へ

平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災が発生。既にデスクになりカメラマンとして現場に出ることがなくなっていた状況下での未曾有の災害発生にもどかしさを感じ、安部さんは自ら志願して仙台を拠点にカメラマンとして取材を始める。どうしても現場で撮影し、視聴者に伝えたい。その一心だったという。

安部さん:
僕としてはデスクになるのが嫌でカメラをずっとやってたかったんですよ。カメラを持って伝えたかったんですよ。それが報道じゃなくてもバラエティでもドキュメンタリーでも何でも良かったんですよ
何でも良いから撮って伝えたかった。それが(デスクになって)出来なくなってて、それで東日本大震災が起きて、本当だったら僕は(被災地取材に)行ってたんですよ。行くはずだったんですよ。報道魂はあったよ。絶対自分の目で見て、自分の映像を撮りたいと思ってたから。

安部さん:

取材自体は大変だった。一番覚えているのは半年過ぎた辺りから震災ネタを東京のネタとくっつけるというのが凄い流行ってきたの。何故かというと被災地ネタだけでは数字が取れない。視聴率が取れない。でも被災地報道はしないといけないから東京の身近なネタに被災地をくっつけてやりましょうみたいなのが多くて。2万人も人が死んでまだ半年しか経ってないのに視聴率取れないから。でも報じなきゃいけないからこういう形で報道するのはおかしいよなと思ったんですよね。テレビ終わっちゃったなという気持ちになりました。それが一番記憶に残っている

安部さんが撮影した東日本大震災被災地
安部さんが撮影した東日本大震災被災地

一方であるの新人報道記者の取材が強く心に残っているという。

安部さん:
当時新人の記者が来て、ずっと被災地に来たかったのに新人だから来れなくて。ずっと会社の中で映像ばかり見ていて、一回被災地に来たいと思っていたら、丸一年の時にやっと被災地取材に来させてもらった。だから色々なものを見たいって言うから、色々な所を回って見させてあげたら泣きながら取材しているんだよね。一年経ってもこういう気持ちでテレビの仕事をやる人がまだいるんだと思って凄いなと思いました

東日本大震災の取材を1年3ヶ月した後、安部さんはカメラマンを引退した。

「テレビの良いところも酷いところも伝える」

現在安部さんは大学で自分の知識を未来のテレビマンに伝えている。

安部さん:
放送学科の先生になったのは幾つか理由があるんですけど、
その中の一つに僕の東日本大震災で体験したことを話して、こういう所は酷いと思った。こういう所は良いと思った。そういうことを聞いた上でテレビ業界に行って、僕の話をどこかで思い出してくれたら良いかなと思っています。だから良いことも言うし悪いことも言う。それを聞いた上でそれを知った上でテレビ業界に入って欲しいなと思うんですよね
取材中の安部裕カメラマン
取材中の安部裕カメラマン

撮影後記

安部さんがキャリアの大半を情報番組やドキュメンタリー番組のカメラマンとして過ごしたのに対して、私はカメラマン人生の大半を報道カメラマンとして過ごしてきた。東日本大震災の後、安部さんは志願して被災地に住み込みながら取材を始めた。被災者に寄り添い続けようとした報道魂に敬意の念を抱いた。

安部さんは配属された当初、報道取材が嫌で嫌で仕方がなかったという。その考えが変わったきっかけが報道に異動して1ヶ月ほど経った時に撮影した山一証券の自主廃業会見だった。安部さんのカメラマン人生の中でも象徴的な出来事だったと語っている。安部さんが報道に在籍していたのは半年間という短い期間ではあったが、自分が情報番組やドキュメンタリー番組のカメラマンとして培った技術や視点で、報道カメラマンとは違った撮り方をしようと、もがいていたという。山一証券の自主廃業会見を撮影した後、こんなにアップで撮影して良かったのだろうかという思いを抱いたというが、デスクに「良い映像だった」と褒められて、報道でも自分のカメラワークが通用するのだと確信したという。

この会見をアップで撮影するのが正解なのかどうかは人によって意見が異なると思う。私が同じ現場にいたら、安部さんのように途中でカメラを止めて前に行く選択をしたのか、アップをずっとキープして撮影したのか。カメラマン人生の大半を報道カメラマンとして過ごしてきた私にとって考えさせられるインタビューだった。

東日本大震災の取材と放送への葛藤は被災地取材をしてきた私にも痛いほど分かる。伝えなければならない現実があるのに、視聴率が取れないという理由で放送できない。その中でも被災地の現実を撮影し伝えようとした安部さんの思いに報道魂を感じた。少しでも視聴者に興味を持ってもらうために、身近なテーマに絡めて放送するというのはテレビの世界ではよくあることだ。私自身同じような経験が何度かある。そこで「こんな取材やりたくない」というのは簡単だが、被災地の現実を風化させないためにも伝え続けることは大切だと思う。

安部さんは東日本大震災の取材で「テレビは終わった」と感じたという。安部さんほどのキャリアがあるカメラマンでもそこまでの気持ちになるのは取材を通して嫌な思いを相当したのだと思う。そんな安部さんに、今のテレビ業界について思うことはあるのかと聞くと、感謝しかないという。テレビの世界で働いている人が一生懸命やっているのはずっとカメラマンをやっていたから知っているし、ネガティブな気持ちは全くないという。楽しい思いもたくさんしたから、自分の教え子にもその世界に進んで欲しいと考えている。

<取材・撮影・編集・執筆>石黒雄太
<撮影>三浦修
<音声>矢野冬樹

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