「誰も行かないところにこそ我々のニーズがある」中村哲医師銃撃死で蘇る武装集団に銃を向けられた“アフガン取材”

カテゴリ:ワールド

  • 湾岸戦争直後にアフガニスタンに入った取材班に起きた“事件”
  • 内戦状態が続き治安が取り戻せないアフガニスタンの「混沌」
  • 現地の復興支援、貧困からの脱出に尽力した中村医師が残した言葉

パキスタンやアフガスタンの復興に半生を捧げた中村哲医師の訃報に接し、久しぶりに彼の地を思い出した。

2001年、「9・11アメリカ同時多発テロ」後のアフガニスタンはまさに「混沌」という言葉がふさわしかった。連日「タリバン」「北部同盟」「ウサマ・ビン・ラディン」これらのワードがニュースや新聞記事を賑わせていた。

湾岸戦争直後のアフガニスタンを取材

中村哲さんのNGO組織の名前にもなっているペシャワールは首都イスラマバードから東に車で3時間ほどに位置するパキスタン東部の町。アフガニスタンとの国境の町として知られている。市街のバザール(マーケット)には高く積まれたスパイスを売る店が数多く存在し、独特の香りに満ちた町だ。

私たちはペシャワールから「カイバル峠」を陸路抜けてアフガニスタンのジャララバードへ入った。カイバル峠は世界史の教科書でもみかける南アジアと中央アジアを結ぶ要衝。対面通行ができない道も多数あり、ここを抜けるのに数時間を要した記憶が残っている。

カイバル峠

普段は固く閉ざされているパキスタン・アフガン国境をペシャワールで知り合った政治家のコネを使い、欧米メディアらとともに目的のアフガニスタン入国に成功した。

Google MAPより

中村さんが犠牲になったジャララバードは本当に何もない小さな町だった。今はどうだか知らないが、5階ほどの高い建物は役所などの公共施設のみ。

私たちがホテル代わりにしていた州知事公舎の周辺にはロケットランチャーといわれる兵器を肩から担いだ“住民”が多数いたため怖くて簡単には公舎の外に出られなかった記憶がある。それもそのはず、まるでおもちゃを買うような感覚で、店先にぶら下げられたホンモノの銃を買うことができるのだ。

銃を担いで歩く“住民”

とにかく私たち取材班は、タリバン解放後のアフガニスタンの首都カブールを取材するため、パキスタン国境に近いここジャララバードに拠点を置きカブール行きを伺っていた。

アフガニスタンとパキスタンの国境の街では銃を売る店が並ぶ

武装集団に狙われた取材班

いよいよカブール行きの日が来た。当時の記録をみると2001年11月19日とある。

カブールへの道は一本道、舗装などされていない道路、確か車で7時間ほどかかったと思うが、ジャララバード郊外でこの“事件”は起きた。

我々が乗った“幼稚園バス”のような車両の前に突如、武装した男たちが立ちはだかり、車に乗り込んできたのだ。彼らは2-3人いただろうか、手にはAK-47・自動小銃が握られていた。引き金に指がかかっているのを見たとき、彼らの本気度を感じた。 ブツブツと何かしらの言葉を発しているが、もちろん言葉の意味はわからない。

私は文字通り“固まった”ことを覚えている。
我々をHold up状態にさせ、着ていたカメラマンベストのポケットに手を突っ込み金目のものを次々と強奪し、20分ほどで立ち去っていった。あっという間の出来事というのは、この時のことを言うのだろう。あの緊張感は今でも忘れない。冷や汗すら出てこなかった記憶がある。

彼らは目的を遂げたあと、そそくさと山林に逃げ込んでいった。

ジャーナリスト4人が死亡

カブールへの道は当時携帯電話もつながらず、会社への報告もできないまま、我々は“事件”から5時間ほど後に首都カブールへ到着。衛星電話で東京本社に「無事到着」を告げたときのことだ。

私の電話を受けた女性が開口一番「元気ですか!」と言ったと思うと周りに向かって「坂本さん、無事です!」と大声で叫んだのだった。事情がわからぬ私がどうしたのかと尋ねると「先ほど通信社のニュース速報が流れ、ジャララバード・カブール間でジャーナリストが襲われ4人が死亡、国籍不明」と出たのでみな心配していたんです」とのこと。事情を知らぬは当事者だけ・・・聞いた瞬間に足がガクガクしたのを今でも鮮明に覚えている。

翌日の日本の新聞も「カブール目指した記者ら襲撃され4人死亡」と一面で報じ、「殺害されたのはオーストラリア人のカメラマン、スペイン紙とイタリア紙の記者とみられる」と伝えた。もちろん私たちを襲った犯人とジャーナリストら4人を殺害した犯人が同一かはわからない。その後の調べでいわゆる“モノ取り”の犯行説が有力ということだったが未だに犯人が逮捕されたとのニュースは見ていない。このように当時から民間人を狙った犯行は多数存在していたのだ。

インフラという概念がなかったアフガニスタンで

銃撃され死亡した中村哲医師

話を戻す。

中村哲医師がアフガンで医療活動を始めたのは1984年からだという。1ヶ月しか現地にいたことのない私が言うのも恐縮至極だが、アフガンは本当に劣悪な環境の地だ。18年ほど前なので比較は難しいが、当時はインフラという概念がなかった。

女性が路上脇にしゃがみこんで用を足している姿を何度も目撃したし水道から水が出ないことなど当たり前の光景だった。

あれから18年ほど経過した現在、この地域で中村さんが掘った井戸は1600本にのぼるという。間違いなくこの地域の公衆衛生の意識は高まり、脱貧困に向けての取り組みは格段に進んでいるはずだ。

中村医師は「生命と水」をテーマに掲げ、用水路の建設に尽力した

今回の犯行についてタリバンは「復興分野で活動するNGOは標的ではない」との声明を出し、関与を否定した。一方この地域は近年イスラム国が台頭してきていることから彼らの関与が疑われている。

いずれにせよ2001年の同時テロを受けたアフガン空爆以降、この国は内戦状態が続いたままで治安を取り戻せていない状態が続いているのは間違いない。そして民間人やNGOが標的になっている事実はあの時とまったく変わっていないのが現状だ。

「誰もが行かないところに我々のニーズがある」

アフガニスタン大統領から名誉市民権を授与された中村医師

アフガンの発展に身を捧げた中村さんの言葉はいくつも残されていて、私もこの地域を取材していた当時にいくつも耳にした。
彼の死をきっかけにすでにその「語録」のいくつか紹介されているが、そのひとつが
「誰もが行くところには誰かが行く。誰もが行かないところにこそ我々に対するニーズがある」

まさに中村さんの生き方そのものであったし、私は折に触れこの言葉を感じつつ、ニュースの現場で仕事をしていたことを思い出した。

【執筆:フジテレビ 報道スポーツ部長 元イスタンブール支局長  坂本隆之】

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