10月18日 成田空港。
多くの支援者が出迎える中、念願の来日がついに実現した。
ヒラヌマさん;(手話)
本当に長い間、日本に来ることを恋い焦がれていました。私は、この足でしっかりと日本の土を踏めたこと、本当に感動しています。ここは私の故郷です。
ロシア国籍の聴覚障害者、ヒラヌマ・ニコライさん(75)。「自分は日本人」だと訴えている。
Q.箸を使うのが上手ですね。
ヒラヌマさん;(手話)
母がご飯を作ってくれていた時は、フォークではなく、箸だった。箸が使えるのは日本人の証拠。
この男性が暮らすのは、北海道の北約43kmに位置するロシアのサハリン。かつての樺太だ。
終戦前に日本の領土だった北緯50度より南には、多い時には約40万人が生活していた。
戦後、集団引き揚げや永住・一時帰国支援で多くが日本に帰ったが、現在でもサハリンに残る人もいる。
ヒラヌマさん;(手話)
私は純粋な日本人です。「ヒラヌマ」という名前があります。それが(日本人の)証拠です。
子供の頃に両親を亡くしたこの男性は、自分の詳しい生い立ちがわからなかった。
当時は、母と再婚した朝鮮人の姓を名乗っていた。その後、自宅で「ヒラヌマ」姓で両親の名前が書かれた書類を見つけ、自分は日本人だと信じ、「ヒラヌマ」姓を名乗るようになった。
しかし、ロシアの手話しかできないため、日本の手話では会話が通じず、周囲の日本人よりも情報不足に陥っていた。
ヒラヌマさん;(手話)
(一時帰国支援)制度があることは知らなかった。調査に来ているという情報も知りませんでした。聞こえる日本人は何人かいたんですが、そのうちいなくなられた方がいたので。私は孤立した状態だった。
Q.もし聞こえていたら、日本に早く帰っていましたか?
ヒラヌマさん;(手話)
そう思います。自分はろう者だから、いろんな情報がなかった。
一方で、日本に引き揚げた聴覚障害者もいた。
広島市 7月。
Q.今でも故郷のことを思い出しますか?
畝さん;(手話)
はい、もちろんです。サケがおいしくて、卵を取り出して食べました。おいしかったです。
広島市に住む畝義幸さん。
終戦から2年後、8歳の時にサハリンから家族で日本行きの船に乗った。
Q.日本に帰る理由は親から説明がありましたか?
畝さん;(手話)
ありません。ただついていくだけでした。ソ連に全部取られて、そのまま帰ってきた。苦しい生活だった。
今回来日したヒラヌマさんは、畝さんにも会いたいと広島を訪問したが…
畝さんのめい 横村さん;(手話)
こちらに写真を飾っておりますが…とても残念ですが、5日前の10月15日に亡くなりました。突然のことで、私もびっくりしました。
ヒラヌマさん;(手話)
畝さんにお会いできることを楽しみにしていたのに、本当に残念に思います。
畝さんとの交流は叶わなかったものの、会場に訪れた人たちを前に語った日本への思いは、 多くの人の胸を打ったようだ。
ヒラヌマさん;(手話)
私が日本人なのかどうかわからなくて、苦しい思いもしましたが、きょうここで皆さんにお会いできて、日本人と感じて、本当にうれしく思っている。
会場の女性;
ヒラヌマさんは、よく頑張って生活してきた。困っている人がいたら助けてあげることが必要だと思う。
会場の女性;
(日本の)手話とは違うが、会って気持ちが通じてよかった。
そして、日本を訪れたヒラヌマさんに対し、国も動きをみせた。
日ロ友好議員連盟 逢沢一郎会長;
「ようこそおかえりなさい」と申し上げたい。
国会議員や厚生労働省、外務省の職員が、面会の機会を設けたのだ。
ヒラヌマさん;(手話)
今回、DNA検査で遺伝子を調べてもらえれば、私が日本人ということがわかれば、何者かということが知ることができます。
自分が日本人であることを証明するために、調査を求めたヒラヌマさん。
そこには、強い思いがあった。
ヒラヌマさん;(手話)
私がいたということを、私を見てサハリンでの歴史を知ってほしい。諦めないことを示したい。
日本人としての自分を探すことは、聞こえないがゆえにサハリン・樺太で翻弄された聴覚障害者の存在を示し続けることになるはずだと信じて…。
(岡山放送)