金正男氏暗殺の実行役として利用されたインドネシア人のシティ・アイシャ元被告がFNNの取材に、事件に巻き込まれた一部始終を語った。金正男氏暗殺事件の直前、アイシャさんは空港内の現場すぐ近くにある喫茶店で北朝鮮工作員ミスターChangの指示を受けていて、その一部始終が監視カメラに捉えられていた。その後、金正男氏はベトナム人のドアン・ティ・フオン元受刑者に猛毒のVXを塗りつけられて死亡した。

アイシャさんは犯行時、金正男氏に近づこうとしたものの「触れなかった」と主張していた。彼女は現場でミスターChangからどのような指示を受けていたのか。そして金正男氏に本当に触れなかったのか。本人に監視カメラ映像を見てもらいながら検証した。

 
 
この記事の画像(10枚)

事件当日に何があったのか

本人の証言によると2017年2月13日8時過ぎ、アイシャさんはクアラルンプール国際空港KLIA2の出発口にある喫茶店に到着した。
ミスターChangとの約束から2時間以上遅れていたという。前日の夜に開かれた誕生日パーティーで夜ふかしし、寝坊してしまったのだという。監視カメラにはミスターChangに謝るアイシャさんの姿が捉えられていた。ミスターChangは作戦の予定時刻に遅れないかと内心焦っていたかもしれない。

約束から2時間以上遅れて到着したアイシャさん
約束から2時間以上遅れて到着したアイシャさん

監視カメラにはミスターChangとアイシャさんが喫茶店内で最後の打合せする様子が捉えられていた。アイシャさんに実際に映像を見てもらい、どのような指示を受けたのか説明してもらった。

アイシャさん:
「Changは、この日は周りに隠しカメラが4つあり、あなた以外にもうひとり女優がいると言いました。『女優?どこにいるんですか?』と聞きましたが、Changは「知る必要はない」と言いました」
「(ターゲットについて)今日は会社のBig Bossが来るかもしれない。彼は傲慢なので、(いたずらをしたら)その場からすぐ立ち去らないといけません」と話していました」

ミスターChangは今回のターゲットを「傲慢な男」と繰り返し説明し、気が短い男だから「いたずら」を終えたら、すぐに現場を立ち去るように念を押していた。暗殺の証拠が残らないようにするための工作だったとみられる。

喫茶店内のミスターChang(右)
喫茶店内のミスターChang(右)
実況見分で警察官に状況説明するアイシャさん 2017年3月1日
実況見分で警察官に状況説明するアイシャさん 2017年3月1日

犯行の瞬間は「触っていない」

その後、アイシャさんは出発ロビーの自動チェックインカウンター近くにある柱のそばで待機していた。30分ほど経過すると、ミスターChangが「その人だ!あのグレーのジャケットを着ている人だ!」とターゲットを指差した。その男性が金正男氏だった。

いつものように液体を手に塗られたアイシャさんは、男性に一歩ずつ近づき、あと2,3歩のところまで近づいた。そして、男に飛びつこうとした次の瞬間、想定外の事態が起きたという。

アイシャさん:
「私はターゲットから2,3歩離れたところで、いまやろうとしていました」
「彼に近づこうとしたところ、知らない別の女性がいたんです。その女性は素早くそれ(いたずら)をやったのです。衝撃を受けました。そしてターゲットの男性のリアクションは、私をナーバスにさせました。それで、その場から立ち去りました」

金正男氏に後ろから近づき、手で顔を覆うフオン元受刑者
金正男氏に後ろから近づき、手で顔を覆うフオン元受刑者
現場を立ち去るアイシャさん
現場を立ち去るアイシャさん

もうひとりの実行犯のフオン元受刑者が金正男氏に「いたずら」を仕掛けたのだ。フオンさんによると、「いたずら」を仕掛けた後、金正男氏はすぐに振り返ってフオンさんの両腕を掴んだという。こうした激しいリアクションを見てアイシャさんは恐れをなし、すぐにその場を立ち去ったと主張した。

猛毒VXの影響は・・・トイレで1回手を洗っただけ

事件後にアイシャさんの服からは猛毒の神経剤VXが検出された。しかし不思議なことに彼女が事件後、体調不良になることはなかったという。彼女は空港のトイレで一回だけ手を洗っていただけで、その後に手づかみで昼食を食べていた。

 
 

ーー手を洗うのは難しかったですか?

アイシャさん:
「普通です。一回洗って十分でした。臭いはしませんでした」

ーーめまいや吐き気はしませんでしたか?

アイシャさん:

「いいえ、ありません」
「液体にVXが入っていたら、私の手についたのに、なぜ私も一緒に死ななかったのか。動画撮影後にショッピングセンターに行き、30分後に素手で食事をしたのです。フードコートではスプーンは使わなかった」

なぜVXが付着していたのにアイシャさんは死ななかったのか。北朝鮮工作員が液体のVX濃度をかなり薄めの濃度にしていた可能性がある。それでも疑問は残る。金正男氏をその場で確実に殺害するためには、濃度を高めた方が確実に遂行できただろう。しかし北朝鮮工作員らは濃度を薄めに調整していた。なぜだったのだろうか。

目的は機内での不審死か

アイシャさんの弁護士グイ氏
アイシャさんの弁護士グイ氏

アイシャさんの弁護士を努めたグイ氏は、北朝鮮の狙いは空港内での殺害ではなく、飛行機内で金正男氏が突然死するというシナリオだったのではないかと主張する。

濃度の薄いVXの入った液体を目や体に付着させ、金正男氏がそのまま誰にも訴えることなくマカオ行きの航空便にそのまま搭乗していたら…。おそらく航空機内で「心臓発作」で死亡したと判断され、事件とみなされなかった可能性がある。

北朝鮮の狙いが機内での死亡であったなら、金正男氏が空港内で死亡して、結果として北朝鮮の関与が明るみとなったことは大きな誤算だったかも知れない。

【関連記事:“自称日本人”の北朝鮮工作員に誘われ…金正男氏暗殺までの1ヶ月半】
【関連記事: “日本人“ジェームスが「好きだった」…心を奪われ工作員の罠に】
【関連記事:“いたずら”から暗殺へ 厳しい経済状況を巧みに利用し上がり続けた報酬】

【執筆:FNNバンコク支局 佐々木亮】

「隣国は何をする人ぞ」すべての記事を読む
「隣国は何をする人ぞ」すべての記事を読む
佐々木亮
佐々木亮

物事を一方的に見るのではなく、必ず立ち止まり、多角的な視点で取材をする。
どちらが正しい、といった先入観を一度捨ててから取材に当たる。
海外で起きている分かりにくい事象を、映像で「分かりやすく面白く」伝える。
紛争等の危険地域でも諦めず、状況を分析し、可能な限り前線で取材する。
フジテレビ 報道センター所属 元FNNバンコク支局長。政治部、外信部を経て2011年よりカイロ支局長。 中東地域を中心に、リビア・シリア内戦の前線やガザ紛争、中東の民主化運動「アラブの春」などを取材。 夕方ニュースのプログラムディレクターを経て、東南アジア担当記者に。