極端なほどの人間不信と人間憎悪 自らを憎み相手を忌み嫌う虐待者の心理

子は親の「所有物」ではない

カテゴリ:国内

  • 子どもは親の「所有物」ではない
  • 自らを憎み、それでも必要とされようと築く歪な関係性から虐待が生じる
  • 加害者を「被害者依存」から脱却させなければならない

精神的支配下に置くことでエゴを満たす

親が子どもを支配下に置いて虐待する。最近明らかになった事例だけでも、陰惨な事件が多く見られる。

目黒区の結愛ちゃんが父親によって虐待死させられた事件は、一審で父親の船戸雄大被告に懲役13年の判決が出た。母親の優里被告は、同じく一審で懲役8年の判決を受けている。判決がニュースになったとき、多少の違和感を禁じえなかった。なぜ、DVを振るい、妻に指示して結愛ちゃんを飢餓と苦しみのなかに追いやった雄大被告との間に5年しか刑期の差がないのか。

裁判の過程で明らかになったのは、妻や子どもを自分の所有物として扱い、彼らを精神的に完全な自分の支配下におくことで、エゴを満たしていた雄大被告の異常な行動だった。この支配には、結愛ちゃんを弟と差別したり、暴力を振るって傷つけたり、食べ物をあげないという具体的な虐待に加えて、相手を最も惨めな存在に追い込むという衝動があったように思う。

虐待され死亡した船戸結愛ちゃん

相手がやせ細り、敗血症の症状である斑が皮膚に浮き上がってくる。自分で排泄できなくなる。普通に考えれば、どこかの時点で病院に連れていくだろうというのが一般の感覚だ。

しかし、そのときの雄大被告は、もしも子供が死んでしまったら殺人者として裁かれることを、知識としては知っていたはずなのに、病院に連れて行かなかった。心のどこかで、最も惨めな状態になった自分が虐待した「所有物」を忌み嫌い、消えてくれとまで思っていたのではないか。かわいらしい丸みをおびた子どもであった結愛ちゃんを、いじめてどんどん惨めな状況に追いやる。

しかし、結愛ちゃんがどんなに親の言うことを聞いて「運動」し、「ダイエット」し、ほとんど眠らず、殴られて謝っても、それによって雄大被告が結愛ちゃんをかわいがることにはならなかった。

虐待する人間は、相手を惨めな状況に追い込むのが目的だが、惨めになった相手をまたそれゆえに憎む。単なる支配だけが目的ではない、虐待者の心理に肉薄しなければ、この問題の本質は捉えられないのではないかと思う。

船戸優里被告(左)と雄大被告(右)

極端なほどの人間不信と人間憎悪

子どもを虐待する親をみていて思うのは、まず極端なほどの人間不信や人間憎悪があるということだ。自然な思いやりや愛情に満ちた感謝などの気持ちのやり取りがない。ゆえに、加害者により禁止されていた食べ物を食べた被害者が恐怖にかられて謝り、また目を盗んで食べようとするそのプロセスを「実証」することに拘っているのではないかとさえ思われる。現実には、そのような命令に完全に従ったら飢え死にしてしまうわけだから、人間の本能からして加害者の目を盗んで食物を食べようとするのは自然な動きだ。あらかじめ、相手が従えないほどの要求をしておいて、それを破った場合に罰する。抗いがたい生存本能をかたにして、相手を罰する状況をわざとつくり出しているのが虐待の本質なのである。

恐怖で人を動かす、ということを実地にやり、そして恐怖が取り除かれれば人はまた禁止された行為をやるのだ、ということが実証されると、それゆえにまた自らの加害行為や支配を正当化する。そして、人間というものを憎む自らの方針を再度強固なものとする。だから、被害者が苦痛を緩和するためにどんなに加害者に気に入られようとしても無駄なのだ。

自らを憎み、それでも必要とされたい

本当の問題は、被害者を虐待することでしか自らを保てない加害者の弱さや、自制心のなさや、自我の欠如にある。ところが、被害者との支配・被支配の関係性を通じてしかその一日を過ごせない自分が、「必要とされている」ことを加害者は歪んだ形で立証しようと試みる。そのような加害者は、たいてい自分自身のことも評価することができず、憎んでいる場合さえある。虐待を繰り返す親が、過去に自身も親の愛を享けずに虐待されて育った場合がままあることは、こうした原因に鑑みればおかしなことではない。

法廷内の優里被告(イラスト:石井克昌)

雄大被告の機嫌を保つことが優里被告にとって大問題であったのは、彼女が再婚した相手がこのような形でしか家庭内で自信を持てず、関係性を結べない人間であったからだ。子どもをろくに構わず、放置しながら無責任に自分の人生を営むタイプのネグレクト親とは異なり、支配や積極的な虐待が絡む事例は、自らを憎む人間がそれでも必要とされようとして築く歪な関係性から生じているのではないか。

公判中、陰惨な暴力で結愛ちゃんを死に追いやった親から「明るい理想の家庭」という言葉が出てきたことは、傍聴者する記者たちを戸惑わせたが、この言葉はおそらくそうした構造から出てきたものだったと思う。

まず子供を虐待親から引き離すべき

虐待を防ぐためにはどうしたらいいだろうか。まずは、加害者の「被害者依存」を断ち切らなければならない。目下言えることは、まず非常時には子供を虐待親から引き離すべきだ、ということ。「約束」をさせるだけですぐに家庭に戻しても、悪化しているケースにおいては改善しないということだ。加害者は、被害者を構い、いじめ、それによって自我を満たすサイクルを自力で止められなくなってしまっているからだ。児相の介入を受けたことで、「自分がやっていることは虐待だ」と気づいて踏みとどまったり変わったりできる段階は、それよりもずっと以前に通り過ぎていたのだと思われる。

加害者は多くの場合、被害者に理由を見出そうとする。雄大被告が、児相にいったん保護された結愛ちゃんを引き取るにあたって、自分も優しくするから「いい子」になってくれという要求をしたのはその典型である。しかし、虐待の原因は加害者にあるのであって、被害者に何らかの原因があると言っている限り、虐待の構造を自覚できておらず、再発は防ぎにくい。今後は、もっと積極的な加害者の教育プログラムが必要になってくるだろうと思う。

子は親の「所有物」ではない

次に、子どもが親の持ち物であるといういまだ日本社会に根強く残っている社会規範を変えていくことである。例えば、日本にかつて存在した「尊属殺人」に課された重罰の背景には、子が親を殺すのは自然に反し、家や社会の秩序を破壊すると考えられたことがあった。つまり、子が親を殺すと重く裁かれたけれども、親が子を殺しても、尊属殺人並みの重罰にはならなかったのである。

親が子どもを虐待したり、性的に搾取したりする事例がかつての日本になかったとは到底思えない。それとて自然の法則には反しているはずだ。しかし、子どもに対する犯罪を取り出して、あえて重い罪として位置付けるような動機を、過去の日本は見出さなかった。

虐待され死亡した栗原心愛さん(左)船戸結愛ちゃん(中)大塚璃愛来ちゃん(右)

社会の考え方は、時代と共に徐々に変化していくものである。児童虐待の事件は、社会にとって「耐えがたい」という感情を生みだすようになった。子どもは社会によって守られるべきだ。陰惨な児童虐待事件に触れたとき、多くの人はまるで自分自身が傷つけられたように感じたはずだ。私も、結愛ちゃんを守ってやりたかった、と思う。

子どもはその親の所有物ではない。そうした認識は社会に広まりはじめている。今こそ、被害者を救いだし、加害者への教育を行う仕組みを考えるべきなのではないだろうか。

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【執筆:国際政治学者 三浦瑠麗】

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