「ラストエンペラー」愛新覚羅家“末裔”が語った中国建国70年

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清朝王室の姓「愛新覚羅」

「令和」の文字を手にカメラに向かう高齢男性。書家の愛新覚羅恒徳(あいしんかくら・こうとく86歳)氏だ。満州族の姓である愛新覚羅と言えば、映画でも有名な「ラストエンペラー」こと清王朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が有名だが、溥儀とは遠縁に当たり、清の皇帝の血を引く”末裔“だ。

激動の時代を生きた恒徳氏に中国建国70年について聞いた。

「王府」の生活から「平民」へ

愛新覚羅恒徳氏

辛亥革命によって既に清王朝は滅亡し、国民党の下で中華民国が成立していた1933年、恒徳氏は北京で生まれた。当時一族は故宮近くにあった皇族の邸宅である「王府」で暮らしており、恒徳氏を取り上げたのは日本人女医だったという。「王府で暮らしたのは2,3歳のころまでだった」と言い、王府を出た後もしばらくは皇族時代の金銀財宝や家具もあり、召使いや家庭教師を雇うなど、幼少期は比較的裕福な生活を送っていた。

しかし、その後一家の収入が、頤和園(清王朝の庭園。中華民国時代に現在の公園となり、その後ユネスコの世界遺産に)で総務関連の仕事をしていた父親の給与だけとなった。祖母が養っていた孤児も含めると10数人の大所帯だったこともあり、次第に生活が苦しくなり、財産を切り売りしながら生計を立てるようになった。

一族の名前が載った「宗譜」に恒徳氏の名も記されている。表紙には満州語文字と漢字。

中国共産党が国民党との内戦に勝利し、1949年中華人民共和国が成立した頃、恒徳氏は高校入学直後だった。

共産党が政権を取った後は「都市平民」という身分を与えられ、父親にはネズミなど病院の実験で使う小動物を管理する仕事が与えられた。「王府の生活からは完全にかけ離れ、普通の市民の生活になった」という。

恒徳氏の父。共産党政権になると、小動物管理の職を与えられた

家に売れるものはほぼなくなり、生活苦から恒徳氏は高校1年生の時、南方への集団就職に応募した。しかし出自が“悪い”ため北京に残され、思想改造の一環として配属された警察学校を経て、公安局の警察官となった。

文化大革命、元皇族への迫害

元皇族という出自のため当初は公安局の反スパイ秘密機関に配属され、家族との連絡も許されなかった。しかし、成績がよかった恒徳氏は1年後には「思想改造が成功し反革命的ではない」と判断され、警察に転属になったことでようやくそれも許されるようになる。警察では事件を担当する部署に配属され、「成績が良く、ほぼ毎年表彰された」という。

そして、1952年18歳の時、当時の情勢の中で生き残るため、共産党の意見に従い入党することになった。

恒徳氏と妻。20歳代のころ。

しかし、1960年代に文化大革命が始まると「皇族の血を継いでいる」という理由で、職場の「批判闘争大会」で何度か吊し上げられた。集会で群衆の前で跪かされ、反革命分子として、罵詈雑言を浴び、自己批判を迫られた。それでも「元皇族を守ってくれる派閥もあり、三角帽子は被らずに済んだ」(注・文化大革命では、批判を受ける者に「反革命分子」などと書かれた、大きな三角帽子を被せたり、プラカードを首に下げさせ吊し上げた)などと半世紀前の記憶をよどみなく語った。

「私は皇族という“悪い”出自だったので職を解かれることが一番心配だった。当時は出自が “悪い”と仕事も見つけられなかったからだ」。

1969年には北京郊外の収容施設「労働改造所」に入れられ、農場などで働いた。そして翌年農村に「下放」され(注・都市部の知識人、青年らを農村に移住させる当時の運動)、農作業のほかトイレの汲み取り作業や石炭の運搬作業にも従事したという。北京に戻ることが出来たのは労働改造所に入れられてから6年後の1975年だった。

一族には更に悲惨な運命を辿った人もいる。恒徳氏の叔父は、過去に国民党の特務機関や、日本の傀儡政権だった満州政府で働いていたなどと無実の罪を着せられ、「反革命的」だとして一家は苛烈な攻撃を受けた。

家に何度も「紅衛兵」がやってきて、清王朝から伝わる宝物(ほうぶつ)から、金品、家具・調度品に至るまで破壊、没収された。破壊が行われている間、一家6人は家のトイレに閉じ込められ、家が壊される音を聞いているしかなかったという。叔父はやがて紅衛兵から受けた暴力や精神的苦痛から病気になり、60歳代で亡くなった。

また、恒徳氏の母親は清王朝で新疆を治める将軍の娘だったことから、街中の「批判闘争大会」で吊るしあげられた。「母は嫁いでからは何の仕事もしておらず、専業主婦だったのに」と当時の無念さを語った。

恒徳氏の母。清王朝で新疆を治めていた将軍の娘だったため、文革では吊し上げられ批判された。

書家として

文革が終わると、恒徳氏は役所の末端の仕事を与えられたが、その後かつての警察幹部を復帰させる政策が打ち出され、警察に復職。出世を重ね、最後は警察組織内の党幹部として退職した。今は月8000元(約12万円)の年金をもらい、書家としても活動している。

「周りが書家と呼ぶだけで、自ら書家と認めたことはない」と謙遜するが、展示会に出展したり、書家に関する本にも度々書が掲載されるほどの腕前だ。1枚の書に1万元(約15万円)ほどの値段が付くという。皇室には代々、唐時代の書家の書体が伝わっていて、恒徳氏は「その中でも比較的“正体”なのが自分の字の特徴だ」と語る。

ラストエンペラー溥儀の思い出

恒徳氏自身が溥儀を見たのは一度だけ。溥儀が労働改造所から釈放された後、街で自転車に乗って出勤する姿を見かけただけだ。映画にも登場する弟の溥傑(ふけつ)とは何度か家に行って話したこともあるという。「溥傑は猫を飼うのが好きな人で、家にたくさん猫がいた」と恒徳氏は振り返った。

父親から聞いた話として覚えているのは、溥儀が満州国の皇帝になった頃、父が満州へ行って、「龍袍」という皇帝が着用する装束を贈ったところ、満州を実際に支配していた日本の関東軍が着ることを許さなかったという。「父は満州が完全に日本人に操られているのを見て、すぐに北京に帰ってきてしまった」。

建国70年を迎えて

国慶節を間近に控えたこの日、かつての宮殿、故宮の入り口にあたる天安門では、建国70周年の軍事パレードに向けて準備が進められていた。恒徳氏が子供のころは親に天安門周辺には連れてきてもらえず、初めてここへ来たのはちょうど70年前、毛沢東が「中華人民共和国成立」を宣言したその日だった。「あの時は東側の壁の下にいた。学校の生徒がここで集合した」「当時門はこんなに大きくなかった」などと思い出を語った。

天安門前で70年前の思い出を語る恒徳氏

「70年の変化はとても大きかった。改革開放以降は生活が向上した」
「政治、経済、国際関係も良くなった」
「今は元皇族でも差別なく平等に扱われている」。

恒徳氏は、現在の生活が安定していることから70年間の歩みを評価している。一方で、共産党に対しては、「何も悪いことをしていないにもかかわらず、度々不公平な扱いを受け、悔しい思いをさせられたこともある」と、複雑な気持ちを持っている。しかし、恒徳氏は時代を生き抜くうえで共産党に入ったことは「賢明な判断だった」と考えている。

今、共産党政権は改革開放以降の発展ぶりを前面に掲げ、建国70年の輝かしい成果を強調している。しかし同時にこの70年は、共産党の強い統制の下、政治や社会の激しい変化によって多くの人々の運命が翻弄されてきた時代でもある。

【執筆:FNN北京支局長 高橋宏朋】

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