父に慎太郎さん、叔父に裕次郎さんを持つ、石原家の次男・良純さん。

兄弟は全員が慶應義塾大学出身で、兄と弟が国会議員という、まさに“華麗なる一族”のご子息だ。

10月17日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、良純さんが芥川賞作家と大俳優という全く異なるジャンルで超一流の座を勝ち取った兄弟を輩出した石原家について、さらに良純さんだけが見た裕次郎さんのハワイの闘病生活を番組MCの坂上忍に語った。

今回、良純さんが坂上との対談場所に選んだのは、海の見えるレストラン。

それは良純さんが神奈川の逗子で育った慎太郎さんと裕次郎さんを語るには海がふさわしいと考えたから。慎太郎さんは32歳で逗子の海沿いに豪邸を構えるほどの海好きということもあり、まさにうってつけの場所だ。
 

石原家にあった3つの家訓

1932年(昭和7年)に石原家の長男として誕生した慎太郎さん。一橋大学在学中に小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞。35歳で参院選に出馬し、当時史上最高の301万票を集めて初当選を飾った。

そんな石原家には、独特な家訓があったという。

まず1つ目の家訓は「朝は絶対に物音を立てるな」。石原家では、睡眠を何よりも大事にする慎太郎さんのために、朝はドアの開け閉めや水を出す音さえ細心の注意を払い、物音を立てないようにしていたという。

そして目を覚ました慎太郎さんが寝室からリビングへと電話をすると、良純さんたちは慎太郎さんに朝刊を届け、部屋のカーテンを開け、乾布摩擦の手伝いをした。それが良純さんたちの仕事だった。

当時を良純さんは「子どもの頃に口を利くのは、『おはようございます』と『おやすみなさい』、『明けましておめでとうございます』くらいしか思い浮かばなかった。話すこともなかったし」と振り返った。
 

 
 
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2つ目の家訓は「朝食は3種類用意せよ」。石原家では毎朝、「ご飯」「パン」「麺類」の3種類を用意。慎太郎さんが起きると電話口で、「今日はうどん」などと、その日の体調に合わせてメニューを決めていた。

3つ目の家訓は「子どもとは夕食を食べない」。石原家の夕食は“完全2部制”で、夕方6時に慎太郎さん以外の6人が食卓を囲み、食事が終わるとテーブルを急いで片付け、慎太郎さんのために新たな料理を準備。「騒がしい子どもと一緒に食べるのが嫌だから」という理由で、夜7時に慎太郎さん一人の夕食が始まるのだ。

その独特な家訓を完璧に遂行したのが、妻の典子さん。結婚60年以上経った今も、変わらずこの家訓を守り続けているという。

坂上が両親の関係について質問すると、良純さんは「言葉は悪いけど“グル”。要するに二人で一つみたいな。僕らには分からないあの感覚は…」とこぼした。

 
 

慎太郎も後押しした妻の夢

こうした数々の独特すぎる家訓に何も異を唱えなかったという典子さん。

たとえ、夜寝ている時に些細なことで起こされても一切文句を言わなかった。

そんな典子さんは、普段は母親らしく、子どもたちに愛情を注いでくれた。しかし、石原家では慎太郎さんの存在が絶対的だったこともあり、ひとたび慎太郎さんの機嫌が悪くなると、子どもたちを徹底的にしつけたという。

全てにおいて“慎太郎ファースト”だった典子さんだが、たった一度だけ、慎太郎さんに“わがまま”を言ったことがあった。それは子育てが落ち着いた30歳の時に、慶応義塾大学を受験したこと。高校を卒業してすぐに慎太郎さんと結婚した典子さんにとって、大学進学は長年の夢だったのだ。そして、その夢を慎太郎さんも応援した。

そして典子さんは慶応義塾大学に見事合格。そんな母親について良純さんは「勉強したかったんじゃないかな。うちの母親は偉いんだよね」と語った。

特殊な家庭で育った良純さんは、「不眠症」で悩んでいた時期もあったと明かした。

当時、作家だけでなく政治家としても多忙を極めていた慎太郎さん。典子さんも慎太郎さんの選挙活動に付き添い、家を空けることも多かった。その寂しさから、良純さんは不眠症に悩まされていたのだ。

しかし、良純さんには年に一度だけ母親を独り占めできる日があった。

それは、湘南から東京へ繰り出す母親との“デート”。その目的は、日生劇場で行われていた舞台「ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー」の来日公演。4人兄弟の中で芝居が好きだった良純さんだけが誘われ、その日だけは母親を独占できたというわけだ。
 

慎太郎と裕次郎は「二人で世の中を渡ってきた」

 
 

逗子のレストランから移動し、坂上と良純さんがやってきたのは、慎太郎さんと裕次郎さんが愛した東京・浅草のそばの名店「長浦」。

昭和の大スターである裕次郎さんは慎太郎さんの2歳年下の弟として生まれ、共に幼少期を過ごしたが、作家の道を進んだ兄とは違い、裕次郎さんは役者の道を目指した。

そんな二人の関係を良純さんは「(慎太郎さんが)よく言っていたのは『片腕』じゃないけども、『一心同体』というか、『二人で一人』みたいな。二人の間には圧倒的な信頼感がありました。うちの祖父が早くに亡くなったので、うちのおやじは『二人で世の中を渡ってきた』って言っている」と明かした。

慎太郎さんと裕次郎さんの父・潔さんは、二人がまだ10代の頃に突然脳溢血で倒れ急死している。

大黒柱を失ったため、残された母親と兄弟は経済的な苦境に立たされた。

 
 

父親を亡くしたショックで酒に溺れる日々を送る裕次郎さんを見た慎太郎さんは、数年後に芥川賞を受賞した「太陽の季節」の映画化の際に、俳優を夢見てくすぶっていた当時21歳の裕次郎さんを脇役として起用。

“昭和の大スター・石原裕次郎”の俳優デビューのきっかけを作った人物は、他ならぬ兄の慎太郎さんだったのだ。

翌年に公開された映画「嵐を呼ぶ男」では主役に抜擢されて大ヒット。さらに、映画「狂った果実」で共演した女優・北原三枝さんと25歳で結婚した。

その後もヒットを連発し、28歳で石原プロモーションを設立。33歳にして初めて芸能人所得番付1位に輝いた。渡哲也さんや神田正輝さん、舘ひろしさんなど、その後の石原プロを支える俳優も参加。こうして一時は苦境に立たされた石原家は、兄弟それぞれの才能によって息を吹き返したのだ。

こうして俳優デビューのチャンスをくれた慎太郎さんに、裕次郎さんはあることをして恩返しをする。

 
 

それは、慎太郎さんが42歳の時に初めて東京都知事選に出馬したときのこと。裕次郎さんは「目一杯応援するつもりです」と慎太郎さんと共に選挙カーに立ち、25日間、帯同して選挙応援をし続けたのだ。

裕次郎に嫉妬した慎太郎

そんな国民的大スターだった裕次郎さんは、良純さんにとってどんな存在だったのか。良純さんは「逗子にある家で年に1回会う“おじさん”でしかなかった」と話したが、子どものいなかった裕次郎さんは、慎太郎さんの4人の子どもたちを我が子のようにかわいがったという。

黒塗りのリンカーンに乗って慎太郎さんの家へ遊びにくる裕次郎さんに、母親やお手伝いさんは色めき立ったようだ。またある時は、突然前触れもなく訪れ、遊んでいる子どもたちを眺めながら一人ブランデーのグラスを傾け、30分ほどで颯爽と帰っていくことも。

そんな格好いい飲みっぷりを見ていた良純さんは、いつか叔父とお酒を飲むのを楽しみにしていたという。その願いが叶ったのは良純さんが大学生の時。だが、せっかくの叔父との酒席は、慎太郎さんの逆鱗に触れることとなった。

 
 

当時のことを良純さんは「1回だけ、大動脈瘤で倒れる前に(裕次郎の家で)お酒を飲んだことがあった。初めてのブランデーを飲んでいたら、夜遅くに(慎太郎さんから)電話が掛かってきて、『いい加減に帰ってこい』って言うわけよ。普通だったら『裕次郎のところにいるんだったら安心だから、気を付けて帰ってこい』って言うのに、うちのおやじは嫉妬するわけ。 そしたら、叔父が『他人のところで飲んでいるわけじゃなくて、俺のところなんだから』と怒って、最後はおばちゃま(裕次郎の妻・まき子さん)が間に入って、僕は帰されたんです」と明かした。

しかし、裕次郎さんが46歳の1981年、伝説の刑事ドラマ「西部警察」の撮影中に倒れて緊急入院。診断された病名は、手術の成功率はわずか3%だといわれた「解離性大動脈瘤」。
 

 
 

慎太郎さんは手術までの10日間、毎日午後6時30分に時間を定め、自宅の神棚に向かい手術の成功を祈り続けた。そして、裕次郎さんは6時間にも及ぶ大手術を乗り越え、奇跡の生還を果たした。

裕次郎さんの奇跡の退院は日本中に奇跡を与え、自身が社長を務める石原プロにも復帰した。

良純が見た裕次郎、ハワイでの闘病

この翌年、良純さんは石原プロに入社。映画「凶弾」で俳優デビューし、この作品で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した。

幼い頃、家に遊びに来ていた親戚の叔父が、気づけば同じ石原プロの社長と部下の関係に。良純さんは「西部警察」にも出演し、裕次郎さんと夢の共演を果たした。

だが、この翌年、裕次郎さんを再び病魔が襲う。その病名は「肝細胞がん」。

病名が本人に告げられることはなかったが、死の直前、裕次郎さんは自らの死期を悟ったのか、大好きだったハワイで闘病生活を送ることに。この時、良純さんは家族を代表して1人、ハワイの叔父を見舞ったという。

そこで目にしたのは、体力が衰え、弱り切った裕次郎さんの姿。この頃は40度の高熱が続き、鼻血が止まらないこともあったという。痛みにじっと耐える裕次郎さんの姿に、良純さんは言葉を失った。

そんな中、たった一度だけ2人で砂浜を散歩した時に、裕次郎さんは隠していたタバコを手に取り、良純さんに「まこ(裕次郎さんの妻・まき子さん)に言ったら殺すぞ」と言い、タバコを吸った。それが良純さんが見た裕次郎さんの最後の笑顔だというが、裕次郎さんらしい行動に「(裕次郎さんにとって)そのタバコが“生きている”ということの実感だったのでは」と良純さんは振り返った。

その5ヵ月後、1987年7月17日、裕次郎さんは52歳の若さでこの世を去った。

裕次郎さんが亡くなった時の慎太郎さんの思いについて、「本心から“自分の片腕がもがれる思いだった”と言っていた。本当に世の中を二人で渡ってきているから。『つらい』とか、『つらくない』という言葉では言い表せないのだと思う」と良純さんは話した。

神田正輝が語る裕次郎の闘病生活

さらに、良純さんは裕次郎さんの闘病を間近で見ていた石原軍団の先輩である俳優・神田正輝さんとも対談。

石原軍団の中でも特に裕次郎さんに可愛がられていたという神田さんは、裕次郎さんの闘病生活を「僕の記憶の中の裕次郎さんはいつも笑顔。病気で入院している時は奥さんとかにつらい顔を見せるときもあったかもしれない。痛いとか苦しいとか。でも、その他の人には絶対に見せない。反対にこっちが励まされちゃった」と話した。

 
 

裕次郎さん亡き後の石原プロの存続についても神田さんは「石原プロは閉めるものだと思っていた。その後の俺は何をするかな…と考えていた」と、当時を振り返った。

裕次郎さんとの思い出を振り返る2人の前に、昨年、「下町ロケット」で孤高のエンジニアを熱演して話題となり、来年の大河ドラマにも出演する石原プロの若手のエース、徳重聡さんが合流。
 

 
 

『21世紀の石原裕次郎を探せ!』グランプリを受賞して芸能界デビューを果たして徳重さんは、裕次郎さんのイメージを「すごすぎてよく分からないです。亡くなった時のすごい報道というイメージがあって、どれだけすごい人なんだろうって。『弟』というドラマで実際に裕次郎さんの役をやらせてもらった時に、どえらい人の名前をお借りして会社に入ったんだな、この世界に入ったんだな、って。ようやく分かり始めたのがその辺りですね」と明かした。

裕次郎さんが亡くなって32年。昭和、平成、令和と時代が変わっても、裕次郎さんの背中は後輩が見続け、受け継がれていくのかもしれない。

(「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54)

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