「最後に1回だけ頭をなでてほしい」中井貴一を女手一つで厳しく育てた亡き母との思い出を初告白

  • 「殴られた思い出しかない」中井貴一を厳しく育てた母親
  • 父親の死は運命だった…そう話す母親が込めた思い
  • 初めて挑んだ中国映画での挫折を救ったのは高倉健だった

シリアスからコミカルまで数多くの代表作を持つ俳優・中井貴一さん。

9月12日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、これまで誰にも語ってこなかった今は亡き父親と母親の特別なエピソードを番組MC・坂上忍に明かした。

出世作での“鬼演出家”とのエピソード

意外にも初対面という2人がやってきたのは、中井さんが学生時代から通い続ける神奈川県葉山町にある海沿いのレストラン。

中井さんは「わざわざ車の免許を取って海に行くのが絶対だった。当時、海の見えるレストランなんてなかったから、ここに行くのが目標だった」と明かした。坂上が「ここに(女性を)連れてくると落ちやすい?」と聞くと、「逆!落ちた後に来る。ここに来て落すようじゃダメ。この人ならごちそうしたいと思える人じゃないと、当時はそこにお金をかけられないから」と、おちゃめな一面をうかがわせた。

そんな中井さんにとって憧れのお店でまずは、過去の中井さん主演ドラマを振り返る。

当時問題となっていた学歴差別を題材にし15年に渡る人気シリーズとなったドラマが中井さんの出世作となった「ふぞろいの林檎たち」。

このドラマの演出家・鴨下信一さんは、かつて俳優らに“鬼演出家”として恐れられた演出家で、中井さんは「朝9時に顔を合わせて、脚本読みやって昼から立ち稽古をやって、家に着いたのが夜の11時。この間、怒鳴られっぱなし。そのときに引退を考えた。今の子はずるい、周りが優しいもん。働き方改革とか、パワハラとか、セクハラって何だよ、もっと早く言ってほしかった!」とこぼした。

また、25歳で主役に抜擢(放送時は26~27歳)された大河ドラマ「武田信玄」。最高視聴率49.2%(ビデオリサーチ調べ)と大河ドラマ史上2位となる歴史的快挙を成し遂げたが、視聴者から厳しい声もあったという。

それは番組の感想など、さまざまな意見が書かれた視聴者からのはがき。現場には“いい意見”のはがきが貼ってあったという。それを見た中井さんは「悪い意見を貼った方がいいんじゃないの?」と提案したところ、「『中井貴一はキツネ目の男にすぎない』とか、『なんであの俳優を出さないんだ』とかそんなのばっかり。もう読んだ途端に落ち込んで、3日くらいで『もうやめよう』となった」と、視聴者からの“悪い意見”に心が折れてしまったというエピソードも明かしてくれた。

父親の突然の死…中井さんを大黒柱として厳しく育てた母親

9月13日からは三谷幸喜さんが脚本と監督、中井さんが主演を務める映画「記憶にございません!」が公開される。キャリア38年で幅広い役をこなす中井さんの父親は、東京大空襲の夜に出会った男女の純愛を描いた映画『君の名は』の大ヒットで一躍国民的スターとなった俳優・佐田啓二さん。実は中井さんは“2世俳優”だったのだ。

佐田さんは撮影所前の食堂で働いていた益子さんと結婚。中井さんと4つ年上の姉とともに幸せな日々を送っていた。しかし、中井さんがまだ物心もついていない2歳11ヵ月の夏に、佐田さんは車で仕事に向かう途中、国道の橋の欄干に激突し、帰らぬ人になってしまう。

事故の原因は、運転手の居眠り運転だった。

一家の大黒柱を失った母親の益子さんは、貯金を取り崩しながら女手一つで中井さん達を育てることに。こうして中井さんを一家の大黒柱として育てる教育が始まった。

食事のときには父親が座っていた席に座らされ、食事中に醤油をこぼすと「食べなくていい」と食事を下げられるなど、母・益子さんは礼儀作法に厳しかったという。

「殴られた思い出しかない」と中井さんは明かし、益子さんが動くと体が勝手にビクッと条件反射してしまうほどだったという。

そんな益子さんは、父親の偉大さを教えるため、フィルムセンター(東京国立近代美術館)に中井さんを連れて行ってくれた。「親父の映画を上映していて、おふくろは父親の映画だからって、裏から入れてもらうこともなく、列に並んで映画を見て。映画を見るというよりも親父を見に行く感覚で、ストーリーを追うよりも、親父を見ている感じでした」と語った。

中井さんにとって、父親としての思い出はなく、俳優としての父親の姿しかなかったのだ。

「運命だった」今だからこそ分かる母親の思い

そして、成長した中井さんは父親の事故の真相を益子さんに尋ねたこともあるという。そのとき母親が答えた言葉に、我が子への“教え”が込められていた。

当時の中井さんは、父親の死は交通事故であることは知っていたが、運転手の居眠りが原因だったことは知らされていなかった。父親の事故原因について問う中井さんに、益子さんは「運命だったのよ。理由はない。お父さんの運命は37という歳だったのよ」と答えたという。

「1回も『居眠りだった』って言わなかった。誰かのせいだということを一切、言わなかった。その結果、何が良かったって、子どもたちが人を恨まないで育ったこと。『あの人のせいで死んだ』と思ったら、その人に対する恨みを持って生きることになるけど、『運命だ』と言われてしまったら人を恨まない」

それでも生涯にたった一度だけ、益子さんが事故に関する本音を中井さんにこぼしたことがあるという。

それは、反対されることを覚悟して運転免許の取得について相談した18歳の時のこと。意外にも益子さんは反対しなかったものの、ぽつりと一言「人に運転されて死ぬより、自分で死ぬ方がいいわ」と話したという。中井さんにとって「これが事故に対するおふくろの本当の気持ち」だと痛感したという。

息子を一人前の男にするために心を鬼にした母親。

父親がいないからといって特別扱いされずに育ったことを、次のように振り返った。
「子どもの頃、学校で『お父さんの絵を描きなさい』という課題があったんですけど、その残酷さがよかった。残酷さを排除されるよりも、残酷さを埋め込まれたことの方が良かった。コンプライアンスや炎上問題などもあって、今は言葉を選ばなきゃ行けない時代だけど、俺は実際にこういうふうに育てられて、こういうふうに生きてきて、これもまた一つの教育の仕方だと強く思う。そうあるべきとは言わないけど、残酷さ、子どもの免疫のつけ方をもっと大人が考えるべき」

父と同じ俳優になったが思わぬ現実が…

俳優になるつもりは全くないまま大学に進学した中井さん。

しかし、父親の十七回忌に来ていた一人の男性との出会いが中井さんを俳優人生に導いた。

「今度映画撮るんだけど、あんたの顔は昭和の顔をしとる」と語りかけたその人物は、映画「連合艦隊」を手掛けた、昭和を代表する監督・松林宗恵さん。

中井さんは松林さんのオファーでこの映画に出演し、特攻隊員を演じた。迷った末に出演したこの映画で、中井さんは日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した。

「親って、いると分からないんですが、みんなどこかで親が目安になっていて、『親父みたいになりたい』とか『あんな人生は送りたくない』とかあるはずだけど、俺にはそれがなかった。自分の将来がどうなっていくんだろうと思ったときに、同じ事をやってみたら親父の後ろ姿が分かるかもって」

こうして父親と同じ道を歩み始めたが、実際の撮影現場では思わぬ現実が待っていた。

3歳になる前に父親を失った中井さんは、記憶さえない父親と比べられ、「2世俳優」と言われ続け、その言葉にうんざりしていた。

そんなある日、中井さんがまるで自分の力でデビューしたと言わんばかりの態度をとると、母・益子さんは「あんたが佐田啓二の息子って言われるのは当たり前だ。勘違いするな!」と言い放った。この「勘違いするな」という言葉を、母親は生涯言い続けたという。

益子さんに、常に父・佐田啓二さんと比べられていたという中井さんは、「一切褒め言葉はなかった。『武田信玄』も『ビルマの竪琴』も『ふぞろいの林檎たち』も一切褒められなかった。頑張って芝居をしても、『親父の足下にも及ばない』って本当によく言われた。本当にいい気にさせてほしかった」とこぼした。

なんとか母親に褒めてもらいたいと思いを抱きながら着実にキャリアを重ねていった中井さんだが、3年前の2016年に母親は病気のため他界。

母親の死の直前、病室で号泣したという中井さんは、「これだけはやっておいてもらった方が良い」と思ったことを坂上に明かした。

「1回、頭をなでてもらったほうがいい。俺が病室で1人になったときに、『おふくろ、1回だけ頭をなでてくれよ』って。そのときに涙が出た。ちょっと不覚でしたけど。本当に泣き崩れる感じでした。この話は初めて言いましたよ。姉貴にも言ってない。
俺は佐田啓二という人の名前も背負わなきゃいけない。選択権がある俺の方が親父と同じ道を選んだ。そんな俺には背負うものがたくさんあったから、 そのことを『よくやっている』と言ってもらいたい気持ちがどこかにあって、『頭をなでてくれ』につながった。もうそれだけでこれからも背負い続けられるって思った」

そしていま、中井さんの父・佐田啓二さんと母・益子さんは、鎌倉にある円覚寺に眠っている。

俳優人生最大のピンチを救った高倉健の言葉

それから2人は、葉山から鎌倉へ移動。中井さんの主演ドラマ「最後から二番目の恋」の舞台のモデルにもなったカフェへ。

ここで中井さんが初めて現場から逃げようと思ったという映画の話になった。

その映画は、唐の時代を描いた2003年の中国映画「ヘブン・アンド・アース 天地英雄」。この映画で日本人唯一のメインキャストを務め、海外作品に初挑戦した中井さんだったが、「すごく大変でした。お金の面もですけど、ロケ地も過酷。新疆ウイグル自治区という中国西部での撮影で、スタッフ200人中国人でセリフも中国語。日本人は一人。ほか一切日本のスタッフがいない。行くのにも3日かかって、ロケ現場に着いたら全体の撮影が始まったものの、10日間は出番がなかった」と振り返り、中国の慣れないやり方や過酷な環境に耐えきれず、撮影の途中で帰国を決意したという。

我慢の限界を超え、ホテルで荷物をまとめていたときに日本から一本の電話がかかってきた。

その電話の主は、高倉健さん。中井さんが電話口で中国での過酷な環境を打ち明けると、高倉さんは、「映画を撮りに行った人間が途中で仕事をほっぽりだして帰ってくるって一番だせえよな」と言ったという。中井さんはその言葉を聞いて仕事をやり遂げることを決めた。

2人の交流の始まりは中井さんのデビュー作の映画「連合艦隊」から。中井さんの演技を見た高倉さんが、「とても素晴らしかった。いつかあなたとご一緒すると思います。役者道をちゃんと進んでください」と人づてにメッセージを送ってきたのが始まりだったという。そこから10年以上経った1994年、2人は映画「四十七人の刺客」で共演。これを機に2人は親睦を深めることになった。

中井さんは、中国の映画出演のオファーが来たときにも高倉さんに相談していたといい、高倉さんから「海外の映画1本で日本の映画10本分の大変さを経験できる。それを乗り越えるのに必要なことはお前が苦労すること。自分を苦難の道に陥れることしかない」と言われたとことを明かした。

俳優人生の中で最大のピンチを救ってくれた高倉さんの存在について中井さんは「俺の親父がこんな人だったらいいなと思っていた」と話し、第2の父親から直接もらったという宝物を見せてくれた。

それは、中井さんが映画賞を受賞したときに高倉さんがくれたというBreguet(ブレゲ)の時計。今となっては遺品となったこの時計に、中井さんはある特別な思いを抱いている。

「高倉さんから“頂いた時計”と言われますが、僕は“預かっている”と思っている。この時計は死ぬ前に自分が“この人だ!”と思う後輩に譲って死のうと思っている。後輩はそういう目で見ています」

スタジオではゲストの大久保佳代子さんは「あそこで現場を放ったらかしにしていたら、その後の役者人生も分からない。だから『役者でいろよ』って高倉さんが引き留めたというのは、お父さんが言ってくれたのと同じなのかな、運命的だなと思っちゃいました」と明かした。

(「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54)

直撃!シンソウ坂上の他の記事