ヴァイリニストとして、年間約100本のコンサートを行う傍ら、バラエティーなどでも活躍する高嶋ちさ子さん。

前回の放送では、ちさ子さんのコンサートへのこだわりや、ずっと支えてくれた母親の存在について明かしてくれた。
「一緒に死のうと思った」高嶋ちさ子を支えてきた“厳しい母”への思い

8月22日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、名司会者として一時代を築いた高島忠夫さんへの思いを、姪であるちさ子さんと、息子で俳優の高嶋政宏さんが語った。

 
 
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肉好きのちさ子さんのために、政宏さんオススメのお店で再会。2人が食事をするのは25年ぶりだという。

2つの高島家の中で特に仲が良かったというちさ子さんと政宏さん。政宏さんから子どもの頃のちさ子さんについて、「こましゃくれてるんだけど、かわいい子って感じで、美人だなと思っていた」と明かされると、「知らなかった」と驚くちさ子さん。しかし政宏さんが「いとこながら、ドキドキしていた」と告白されると、「気持ち悪い」と苦笑い。

そんな2人が今回、今年6月に亡くなった忠夫さんへの思いをテレビで初告白。ちさ子さんはこれまで、公にコメントすることを控えてきたが、ちさ子さんによるとその理由は「おじちゃまの取材とかいっぱい来ていたけど、知らない人に話すより、バーブ(政宏)にする方が絶対にいいと思ってしなかった」と明かした。
 

 
 

政宏さんを「バーブ」という独特なあだ名で呼ぶちさ子さん。その理由は「バーブが生まれた時に、ウチの姉が『政宏くん』って呼べなくて、『バーブ、バーブ』って言ってたら『バーブ』になった」とのこと。ちなみに、弟の政伸さんのことは「あーちゃん」と呼んでいるという。
 

海外ロケで遺書を書いた!?

神戸生まれの忠夫さんは、1951年に上京して芸能界入りし、21歳で俳優デビュー。映画『坊ちゃん』シリーズで主役を張ると一躍名をはせた。

 
 

そして、『ゴールデン洋画劇場』での映画解説や、当時絶大な人気を誇ったバラエティー番組『クイズ・ドレミファドン!』の司会を務め、誰もが知る人気者となった。

ゲストの薬丸裕英さんは「『クイズ・ドレミファドン!』で本当にお世話になった。僕、強かったので優勝することも何度かあったが、高島さんがそれを褒めてくださって、『アイドルをやりながら、これだけ曲を覚えられるのがすごい。これは一つの才能』と言われて、すごく嬉しかった思い出があるんです」と振り返った。
 

 
 

1963年、番組の共演がきっかけで交際していた当時の宝塚歌劇団トップスター・寿美花代さんと32歳の時に結婚。1965年には政宏さん、翌年には弟の政伸さんも誕生し、芸能界一のおしどり夫婦としてお茶の間に親しまれた。

両親が大スターだったため、家族でのテレビ出演も増えていき、“高島ファミリー”と呼ばれるように。政宏さんたちは芸能界デビューする前から、家族で海外ロケに行くこともあったという。

例えば、忠夫さんが大ファンで、1980年代に『黒い瞳のナタリー』を大ヒットさせたスペインの世界的歌手、フリオ・イグレシアスに会いに行くという番組。

そこには、憧れの歌手に会えたことでテンションが上がりまくる忠夫さんが、2人だけで夢のような時間を過ごしたいがあまり、息子たちをその場から追い出すほど興奮している映像が残っている。
 

 
 

しかし、この海外ロケの裏では死をも覚悟した話し合いがあったという。
忠夫さんが飛行機嫌いだったことから高島家では海外旅行も禁止だったと明かした政宏さんによると、「ある時、フジテレビの厚意でフリオ・イグレシアスに会いに行けることになって、『死んでもいいから行こう』って言うので、みんなで遺書を書いて。弁護士事務所に渡して、弁護士の判をもらって、4人で乗ると一家全員何かあったらいなくなるから、飛行機の便を二手に分けた」という。この“命懸け”なエピソードを聞き、ちさ子さんは目を丸くしていた。

一方、ちさ子さんは忠夫さん一家が芸能界で大活躍していた頃、「バーブたちがデビューした時に、『迷惑にならないように、あの子たちの足を引っ張っちゃいけない』ってウチの父がいつも言ってた。悪いことしたら『いとこが!』って言われちゃうから」と親戚ならではの注意をされていたことを明かした。
 

高嶋政宏、高嶋ちさ子が語る高島忠夫

大スターだった父・忠夫さんだが、政宏さんが知る本当の姿は、世間のイメージと違っていたという。

政宏さんは「厳しかった。お客さんが来ている時に騒いでいると、客が帰った直後に直立不動でビンタ。印象は“怖い”という感じ。モデルガンとか『欲しい、欲しい』と言って、『買ってやる』となるんですけど、そこから騒ぐと全部なし。没収も多かった。買った物を返しに行くって言われたり。もう泣いて、『やめて、ごめんなさい!』って言ってもダメだった。そういうのは厳しいよね」と明かした。

そして、お小遣い制だったこともあり、興味を持ったロック音楽に使う楽器を買えず、「お年玉で何年かかったらこのギターを買えるか」とか考えていたと言い、「それが教育だった」と話した。

一方、幼い頃からヴァイオリンを始めたちさ子さんにも忠夫さんから真面目な一面がうかがえるアドバイスがあったという。それは、「『ヴァイオリンやっているんだったら、もっと芸に没頭しなきゃいけない』って言われて。私が、『おじちゃまって、聖子ちゃんとかトシちゃんとか会うの?』って聞くと、『バッハとか弾いている人は、そういう俗世間のものに耳を傾けちゃいけない。バッハを弾く時は正座をしろ』って言われたの」というもの。しかし、その時ちさ子さんは「(忠夫さんとは)話し合わないわ…」と思ったという。
 

「うつ病」発症後も妻と二人三脚で…

ところが、ドラマやバラエティー番組の司会など幅広く活躍していた忠夫さんは、68歳の時に「うつ病」により、芸能活動を休止する。

当時、取材で父親の様子を聞かれた政宏さんは気丈に振る舞っていたが、家で目の当たりにした父親の姿は衝撃的なものだったという。「うつになった時、急に変わり果てた。痩せて、白髪の老人がソファで寝ている。それを見た時にもう衝撃で。この間、父は亡くなりましたが、うつ病発症の時のショックの方がすごかった。風呂場で泣いて気づくと1時間くらい経っていて。その時に、自分の価値観が全て変わった、それくらいの衝撃でした」。

 
 

うつ病になり、言葉も発さず変わり果てた父親の姿に、危機感に駆られた政宏さんは、忠夫さんに人前に出る気持ちを思い出してもらうため、リハビリサプライズパーティーを開催。歌うことができなくても父親が拍手に包まれることを願い、事情を知っている知人が集まった。

そのパーティーで、会話もしなくなっていた忠夫さんが歌を歌ったという。誰もが予想しなかった出来事に、弟・政伸さんは涙を流した。

家族の支えもあり、うつ病発症から5年後の2003年に芸能界復帰宣言。しかし、うつ病に加え、パーキンソン病も発症し、さらに不整脈で心臓にペースメーカーを付ける手術を行い、忠夫さんは再び表舞台から姿を消した。

こうした中、2013年にフジテレビが独占密着した映像には、忠夫さんの闘病生活と献身的に支える妻・寿美さんの姿が映されている。
 

独占密着!真実の高島ファミリー「忠夫さん、死ぬまで一緒やで」~寿美花代・献身愛で闘う夫の病~(2013年放送)
独占密着!真実の高島ファミリー「忠夫さん、死ぬまで一緒やで」~寿美花代・献身愛で闘う夫の病~(2013年放送)

パーキンソン病の症状で手の震えが止まらない時は、忠夫さんをマッサージし、ボタンを掛け違えていれば、寿美さんは寄り添って手伝う。

深刻な糖尿病に加え、動脈硬化も進行。血流が悪くなり、足が冷たくなる忠夫さんの血の巡りをよくするために足をマッサージ。寿美さんは、忠夫さんの喜ぶ顔を見たい一心で、365日マッサージを欠かさなかったという。

重い病を患ったうえに、83歳という年齢を考えると「施設」に入るという選択肢もあったが、寿美さんは「どんなお家でも住んでいる家が一番なので、できる限り私は病院には入れたくない」と話していた。
 

独占密着!真実の高島ファミリー「忠夫さん、死ぬまで一緒やで」~寿美花代・献身愛で闘う夫の病~(2013年放送)
独占密着!真実の高島ファミリー「忠夫さん、死ぬまで一緒やで」~寿美花代・献身愛で闘う夫の病~(2013年放送)

さらに、離れて暮らす息子たちが父親の顔を見に帰ってきた時の映像も残されている。
そこには血糖値が上がってしまうため食べさせることができないが、忠夫さんの大好物であるおはぎを、寿美さんが「私が食べたいから」とお茶目に取り分ける姿や、忠夫さんが心臓のペースメーカー手術に成功した瞬間の写真を携帯電話の待ち受け画面にしているという政宏さんが、「見ると元気をもらえる」と盛り上がる様子があった。

寿美さんと結婚して56年、芸能界一のおしどり夫婦と言われ、病になっても常に二人三脚で歩んできた忠夫さんは、今年6月26日に88年の人生に幕を下ろした。

忠夫さんの晩年の様子を政宏さんは「世間では、突然の訃報みたいな感じでしたが、最後の5年がとにかく呼吸が弱くなっていた。徐々に慣れたという感じ。おもしろいのが、『何食べたい?』って聞いたら『シャンパンとローストビーフ』、『ビール飲みたい』って。ノンアルコールビールとか飲んでいました」と明かした。さらに「『最近テレビで見たんだけど、もう俺たちの年代になると、お前のああいう下ネタ大好き!』と言った」という秘話も披露。この意外な言葉に、横にいた母・寿美花代さんは苦笑い。政宏さんも驚いたという。
 

“2つの高島家”確執報道の真相

 
 

さらに、一部週刊誌による“2つの高島家”の確執報道について、その真相についても迫っていく。

実の兄弟である忠夫さんとちさ子さんの父・弘之さんが、ある時を境に疎遠に。以前は、仲が良かった2人だが、ある日突然パッタリ会わなくなってしまったことに、ちさ子さんは「たぶん、ウチの母がいけないんだと思う」と話し始めた。

当時、ちさ子さんと政宏さんの祖母は、ちさ子さん側の母・薫子さんの計らいもあって、なかなか入れなかった病院に入院していたという。その後、ちさ子さんの兄が結婚することに。結婚式に祖母を出席させたがる弘之さんと薫子さん夫婦に対し、忠夫さんは「おばあちゃまの気持ちも考えろ」と反発。これに薫子さんが「誰のおかげで病院に入れたのかしらね」と応酬…これがきっかけで顔を合わせることがなくなってしまったという。ほとぼりも冷めた頃に会いに行こうとしたところ、忠夫さんがうつ病を発症。寿美花子さんと話し合って会うのを控えていたら、そのまま時が過ぎてしまった…というのが、忠夫さん・弘之さんの“2つの高島家の確執”の真相だという。

そんな話をしていると、2人の前に突然、ちさ子さんの父親である弘之さんが登場。

1951年の戦後復興期、忠夫さんは俳優でデビューするため、弘之さんは進学のため、神戸から一緒に上京。弘之さんは当時の忘れられない思い出について語った。

 
 

「兄貴は新東宝に入って、俳優座の養成学校にいて、絶対に人気が出ると思っていた。それで、有楽町にあるおいしいトンカツを食べに行こうってなって、その時に初めてヒレカツを食べて。あの時に食べたヒレカツ、世の中にこんなうまいものがあるんだって思った」と振り返った弘之さん。政宏さんは「それを超えるものないですか?」と聞くと、弘之さんは「あるある!」と即答し、ちさ子さんに「あるのかい!」とツッコまれる一幕もあった。

また、「兄貴の人生は映画をやり、舞台をやり、そしていち早くテレビで司会者という地位を高くした。それはすごく評価していいと思うけど、弟が評価してもしょうがないよね」と語った。
 

 
 

疎遠になった時期もあったが、ちさ子さんが「お兄ちゃん(忠夫さん)のこと、大好きだった」と言うほど、心はつながっていたという2人。兄・忠夫さんがこの世を去って2ヵ月が経った今、弘之さんは「身内自慢になりますが、政宏・政伸というキャラクターも立つ、立派な息子を2人残して、兄貴は満足して死んだと思う。それぞれの世界できちっと仕事もしたから、僕はいい人生だったと思います」と笑顔を見せた。

政宏さんは「もう巨大な存在でした。芸能界でも、親としても、厳しいということもありましたし。最後の2ヵ月くらいは、痰を切ることもできないような中、ちょっとずつ僕らを慣らしてくれて。あんまり、みんなが落ち込まないようにしてくれたんじゃないかなという感じです」と振り返った。
 

 
 

ちさ子さんは「家の中での存在感がすごかった。だから、家族一丸で支えて、みんなが心残りなく見送れたことが一番じゃないですかね」と話した。

ちさ子さん、政宏さん、弘之さんの思いを知り、番組MCの坂上忍は「ある期間がんばってくれたから慣れる時間が持てた、見送る覚悟ができた、という捉え方になっていくんですね」と、感慨に浸っていた。
 

(「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54)

直撃!シンソウ坂上
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