2020年に開催される東京オリンピックまでもう、1年を切った。

そこで7月28日放送の「ジャンクSPORTS」(フジテレビ系)では、「オリンピック22の新事実!3時間SP」と題し、レジェンドアスリートたちに隠された新事実を語ってもらった。

谷亮子が夫との馴れ初めに照れ笑い

谷亮子さん
谷亮子さん
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柔道界のレジェンド、谷亮子さん。なんと、今回「ジャンクSPORTS」のスタジオに初登場。

そんな彼女が天才少女として注目されたのは中学3年生の時。1990年、初めての国際大会で大会史上最年少の15歳で優勝。当時、大人気だった柔道マンガ『YAWARA!』(小学館)の主人公と階級、柔道スタイルが同じだったことから「ヤワラちゃん」の愛称で親しまれ、国民的スターに。

その後、世界選手権6連覇といった快挙をはじめ、圧倒的な強さを誇っていた彼女だが、16歳で初出場した1992年のバルセロナオリンピックでは銀メダル。続く、アトランタオリンピックも銀メダル。その悔しさから、「最高で金メダル、最低でも金メダル」という言葉を残して挑んだシドニーオリンピックでは、見事金メダルを獲得した。

2003年に元プロ野球選手の谷佳知さんと結婚した後は、「田村亮子で金、谷亮子でも金」と公言し、2004年のアテネオリンピックで2つ目の金メダルを獲得。谷さんは、日本人初の5大会連続でメダルを獲得するという偉業を成し遂げた。

そんな柔道を極めすぎた谷さんは、常人離れしたトレーニングをしていたという。

以前、番組のインタビューでは「オリンピックを目指すにあたって、影響を受けた人がマイク・タイソン選手。実家にサンドバッグがあって、マイク・タイソンの動きをしながら、1分間くらい叩き続けるんです。柔道以外からヒントを得ることが多くて、トラやライオンとにらめっこしてみたり」と、独特過ぎるトレーニングについて明かしている。

さらに、マイク・タイソン選手が行っていたトレーニングを柔道に置き換えたのが鎌を使ったトレーニング。鎌を振ってもらい、柔道にとって大切な足技を鍛えていくというものだが、この特訓について元チームメイトの中橋治美さんは「もう怖くて、怖くて。命が問われる練習」と明かした。

それ以外にも、「獣道を走って出会った野犬を追い払った」ことや「黒部ダムの放水からパワーを吸収していた」こと、背中を付けることは一本を取られることのため「寝るときは背中を付けない」など、谷さんの伝説が登場。

 
 

なかなかの強者の谷さんだが、一方で甘い話も。

シドニーオリンピックで獲得した初めての金メダルは、夫である谷佳知さんの存在が大きな力になったという。

「どうしました?」と詳しく聞き出そうとする番組MCの浜田雅功さん。「どうもしないんですけど…」と谷さんは照れてしまい、なかなか言い出せないことに業を煮やした浜田さんは、永島優美アナに解説を託した。

シドニーに出発する前に、谷佳知さんがティファニーのネックレスを谷さんにプレゼントし、交際を申し込んだという。その「応援してくれている」ということがものすごく大きな力になり金メダルを獲得できたという。

そのままシドニーへとネックレスを持って行った谷さんは、「(メダル獲得後の記者会見の)テレビを見てくれているかなと思いながら、さりげなく付けていた」と明かし、スタジオも幸せな雰囲気に包まれた。

有森裕子の「本当のライバル」

有森裕子さん
有森裕子さん

1992年のバルセロナオリンピックで日本女子陸上界64年ぶりのメダルを獲得した有森裕子さん。

しかしこの5ヵ月前に、代表選考を巡る騒動が起きていた。日本代表の残り1枠について、その枠を争っていた松野明美さんが異例の記者会見を実施。マスコミは、有森さんと松野さんとの代表争いについて報じた。

当時、松野さんは有森さんがケガをする中、好記録を出し、日本代表候補として名が上がっていた。このことについて有森さんは「本当に、“作られたライバル”という感じでした」と振り返る。

実は、有森さんがこの時に意識していたのは、松野さんではなく、別の人物だった。

その人物は、山下佐知子さん。有森さんにとって「彼女がいなかったら、今の私はいない」と話すほどの存在。

バルセロナオリンピックの日本代表を選考する大会で、当時、日本記録保持者だった有森さんは、周りからの期待が高まっていたが、この頃、頭角を表わしたのが山下さんだった。

この大会で山下さんが2位となりオリンピック行きが決定、有森さんは4位で日本代表は保留となってしまう。

これを機に、有森さんは山下さんをライバル視するようになった。「(代表となった)彼女は自分の練習に集中して、落ち着かない私。それぞれ、見えないようにこっそりトレーニングしていました」と有森さんは当時を振り返った。

小出義雄監督との特訓の甲斐もあり、有森さんは実績を残し、見事オリンピックのスタートラインに立てることに。待ちに待った山下さんとの勝負は大舞台となった。

オリンピックの舞台でも、ライバルである山下さんを意識し続けた有森さん。給水所で山下さんを振り切るチャンスを逃さず、そのままペースを落すことなく走り続けた有森さんは悲願のメダルを獲得した。

その4分後に山下さんがゴールし、結果は4位。

ゴール後の山下さんは、有森さんがメダルを獲得したことに触れ、「日本で獲れたら満足です」とホッとした表情を見せた。

この言葉を聞いた有森さんは、当時を振り返り、「嬉しかったです。バチバチして、口も聞かなかったということが多かったので。だけど、お互いどれだけ頑張ってきたかは分かるので、同志だったんだなと感じさせてくれた第一声です」と話した。
 

7人制ラグビーのために茨の道へ

 
 

7人制ラグビー日本代表の林大成さん。

彼は日本代表なのに、所属チームも、練習場所も家もない。スーツケース1つで生活しているという。

オリンピックでのラグビーの歴史をたどると、1900年、1908年、1920年、1924年と15人制のラグビーが五輪正式種目となっていた。しかし、五輪期間中に何試合も行えないという理由で、1924年のパリ五輪を最後に正式種目から外れた。

その後、2016年のリオ五輪から激しさよりもスピードに特化した7人制ラグビーが採用されることに。試合時間は7人制は14分と、80分の15人制と比べて6分の1だが、グラウンドの広さは全く同じ。豊富な運動量が求められる。

林選手も、もともとは15人制ラグビーの選手。大学時代は強豪、東海大学のキャプテンとして全国ベスト4ヘと導き、その後は国内最高峰リーグに所属するキヤノンとプロ契約。しかし、昨年、7人制ラグビーに専念するため退団し、東京オリンピックに出るため、日本で唯一の7人制専属のプロ選手となった。

所属チームを退団した結果、練習場所と練習相手を失った林選手。他の7人制の日本代表選手は、練習環境の整った15人制で練習をしながら、7人制の練習を行っているが、なぜ林選手は茨の道を選んだのか。

林選手は「チームのスケジュールで動いたり、チームの事情で15人制をプレーするよりも、自分自身が選択して練習パートナーや練習場所、トレーニングを選んだ方が、僕の中で意味を見いだしている」と自らの選択でこの生活を選んだ理由を語った。

7人制に没頭するため、1分1秒たりとも無駄なことはしたくない。そんなストイック過ぎる男は、どんな生活を行っているのか。

基本的には寝泊まりは「アパホテル」だという林選手。ただ一つのスーツケーツを持ち、練習先を渡り歩いている。そのスーツケースの中には、スパイクやトレーニングシューズと8割以上はラグビー用具。ただ、ラグビーボールは持っておらず、「これから買います!」とのこと。

そして、林選手の練習にも密着。この日は「広場」で行うため、公衆トイレで着替えを済ませ、子どもたちが走り回る中、一人寂しくストレッチを開始。

すると、ラグビーができそうな男たちの姿を発見。林選手は「1ヵ月ほど前に、Twitterで全国ステップチャレンジという企画を出して、全国から練習パートナーを募集して600人近く手を挙げてくれた」と、ラグビーの仲間に支えられて、日々のトレーニングに励んでいるようだ。


7人制ラグビー日本代表は現在、年間200日以上試合や練習など、代表で決められたスケジュールで動いている。それ以外の残りの100日近く、林選手はこの生活をしているという。
また、ラグビー協会とは、専任契約をすることで、活動費などのサポートをしてもらって練習に励んでいる。

そんな林選手の思いは「日本代表としてメダルを獲ること。個人としては絶対に優勝したい。日本が世界一になる、そのために、自分が役割を果たすという所に向かって、日々生活しています」と熱く語った。

 

『ジャンクSPORTS』毎週日曜日夜7:00~8:00放送