長い歴史を誇る琉球箏曲

きょう6月23日 沖縄は 「慰霊の日」を迎える。

あれから74年…当時の戦火で傷ついた沖縄の人々の心を癒やし、焦土と化した沖縄に「復興の息吹」を与えたと語り継がれる“音色”今に語り継がれている…

18世紀初頭から長い歴史を誇る琉球箏曲。

仲嶺貞夫さん…国指定の重要無形文化財となっている組踊箏曲の演奏家だ。

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貞夫さんの自宅には父であり師でもある仲嶺盛竹が遺した一面の箏が保管されている。

仲嶺貞夫さん:
父の盛竹が戦争で避難するときも持っていた物ですから、たいへん古い箏です。

仲嶺盛竹(1898~1970)幼いころから芸能に親しんできた盛竹は、20歳で箏の音色に魅せられ、戦前戦後と沖縄を代表する箏曲の実演家として活躍した。

芸の道を真摯に歩んだ盛竹だが戦争は演奏家の暮らしにも影を落とした。芸能活動は制限され那覇から北部へ避難することを余儀なくさた。

仲嶺貞夫さん:
(盛竹自身も)戦火に羽地の源河というところに避難して、そこでしばらく過ごしていました。 家財道具を全然持たないで、箏一面を持って源河の方に避難しました。

「箏は一生涯の友」、常々そう語っていた盛竹は食料や家財道具ではなく、箏だけを腕に担ぎ戦火のなかを逃げ惑ったという。

仲嶺貞夫さん:
これを命の次に大事にするような気持ちだったのではないかと思います…

74年目の新たな証言

盛竹の箏をめぐり、このほど新たな証言が出てきた。

池田洋子さん86歳、12歳で沖縄戦を経験した。洋子さんは終戦前に、収容先で盛竹の演奏を聴いたという。

池田洋子さん:
実はねそのころ、羽地の川上でも演奏会があったんですよ…ある日(父が)私たち家族に戦時中も大事に箏をもってらした方がいるんだよ、近いうちに演奏会をするから聴こうなって…

1945年3月、アメリカ軍の攻撃から逃れるため洋子さんは家族とともに首里の家を出て、北部を目指した。頭上を飛ぶ弾におびえながら何日もかけて移動を続けた。

池田洋子さん:
あの頃私は夜盲症、それもかかってね…夜歩かんといけないのに見えないんですよ

仲嶺貞夫さん:
栄養失調もあるんです

池田洋子さん:
金武の大川でやっと水にありついた、何日ぶりか、この水のおいしかったこと、飲まず食わずで金武まできて…

金武の壕はすでに避難民で溢れていたため、洋子さん一家は命からがらに北部を転々とした。

池田洋子さん:
怖かったですね、日本軍にやられる人もいる、食料よこせと、あなたはスパイだからと殺される人もいるし、今帰仁でそれがありました。

6月になり、洋子さん一家はアメリカ軍の車両で今帰仁から旧羽地の収容所へと移され爆撃から逃げ惑う日々は終わりを告げた。

戦火の心に響いた筝の音

戦場の悪夢は去ったものの食糧難による栄養失調、そしてマラリアによる死はあとを絶たず人々の不安や緊張は続いたという。

洋子さんが収容されていた羽地には箏だけを持って避難してきた
仲嶺盛竹がいた。箏の演奏会は、そのころ地元の人々や避難民を集めて開かれた。

池田洋子さん:
みんなほっとしたんじゃないですかね…心すさんでいますでしょう、戦時中でね。だからこそ箏の音を聞いて安らかになって、いま散り散りになっている親戚、縁者、家族もどうかお元気にいてくださいという思いも心でやったんじゃないかと…そういう音楽とか芸能が、人心を平和のほうへ導くという足跡を残したのが盛竹先生じゃないですかね…

復興の息吹が芽生えた瞬間

終戦直後の1945年12月、石川の城前小学校で開かれたクリスマス演芸大会。
生き残った芸能家が各地から集められ舞台に立った。盛竹はこの時も命をかけて守り抜いた箏を民衆の前で披露した。クリスマス演芸大会は鉄の暴風をかいくぐった人々の心を癒し、焦土と化した沖縄に復興の息吹を与えたと語り継がれている。

貞夫さんはいま師から受け継いだ技、そして心を若い世代へ伝えている。

仲嶺貞夫さん:
(盛竹が)音楽や芸能をやるには、平和でなければならないと、平和でないと自分の好きな演奏活動できない、身に染みて感じていたのでは…

【沖縄テレビ】

慰霊の日「沖縄全戦没者追悼式」を生中継
6月23日(日)12時開始予定
FNN PRIMEオンライン
https://www.fnn.jp/live

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