どんなスポーツでも続けていくと、“山”も“谷”もある。

6月9日放送の「ジャンクSPORTS」(フジテレビ系)には、花田虎上さん、山本博さん、山本昌さん、山本美憂さんら不屈の魂と肉体を持つ超人アスリートが集結。アスリート人生に隠されたさまざまなエピソードを明かした。
 

「将来、力士になろうと思ってなかった」

 
 
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第66代横綱・若乃花こと花田虎上さん。

父親は“各界のプリンス”と呼ばれた初代貴ノ花。伯父は第45代横綱・初代若乃花。そして、弟は第65代横綱・貴乃花という華麗なる相撲一族に生まれた花田さん。

弟と共に“若貴フィーバー”を巻き起こし、アイドル並みの人気を誇ったが、各界の頂点「横綱」にまで上り詰めた栄光の裏には、決して華やかだけではない苦悩と葛藤の日々があった。

10代の頃から体重が100キロを超えるなど体格に恵まれていたため、相撲取りとして将来を有望視されていたが、中学生になった花田さんの興味はファッションへ。
オシャレな洋服が着たいとダイエットを決意した花田さんは、「オシャレに目覚めたというか、将来、力士になろうとは思っていなかった。僕自身は美容師になりたかった」と衝撃の告白をした。

過酷なダイエット生活の努力が実り、体重100キロからマイナス33キロのダイエットに成功し、オシャレな学生生活を手に入れた花田さん。だが、高校2年生の時、弟・光司さんが中学校卒業に合わせて入門を決意。

相撲に興味の無かった花田さんもその影響で、乗り気でないまま入門することに。

弟・貴乃花は幕下に入ってから次々に最年少記録を塗り替え注目を集め、兄・若乃花も天性の相撲センスを活かして、下半身の強靱な筋肉と粘り強い相撲で、19歳で十両昇進とスピード出世を果たす。

だが、実は心の中でずっと相撲を辞めたがっていた花田さんは、「貴乃花が関取に上がって落ち着いて力も付いてきたので、父に『辞めさせてください』と本気で言いに行きました」と明かした。

そんな花田さんの意思はやはり受けいれられず、父親から「横綱になったら辞めさせてあげる」と、とてつもない約束を突きつけられた。花田さんはその言葉を信じ、練習の鬼となり、初土俵から5年後に横綱目前となる大関へ昇進。

 
 

しかしその矢先、花田さんは「右大腿二頭筋断裂」という100キロ以上の大きな体を支える力士として致命的な大怪我を負い、診察した医師からは引退勧告を受けたという。さらに、花田さんは「マスコミはサーッと引いていき、付き人や運転手さんまで去ってきました」と当時を振り返った。

その後、懸命なリハビリを行い、見事に土俵復帰した花田さんは、親方に勝利の報告をすると「『ダメだと思っていたよ。引退だと思っていた。お前の次の仕事を考えていた』と言われて…、それは優しさかなと思っていたけど、ショックで寂しくて、見返してやろうって思った」と明かした。

その後も幾度となく怪我に見舞われたが、諦めずに奮起。1998年5月、27歳でついに横綱へと昇進した。

決して前向きではなかった角界入りだったが、それから10年、横綱となった若乃花は、弟の陰ではなく、相撲界を背負う一人の偉大な力士となった。

番組MCの浜田雅功さんから「(入門の)準備は何もしていなかった?」と聞かれると、花田さんは「何もしてないです。美容師になりたかったから」と話した。また、横綱昇進が決まったときに引退しようとしていたという花田さんは「横綱の昇進が決まると使者が来るんですけど、ちょっと冗談で『謹んでお断りします』と言ってもいいですか?って親方に言ったらすごい怒られた」と明かした。
 

KIDは本当に怖かった

 
 

女子レスリングの元世界女王にして、現在は総合格闘技のリングで戦う、女子格闘家・山本美憂選手。昨年、がん公表からわずか23日後に急逝した最愛の弟・山本“KID”徳郁さんとの姉弟の絆について明かした。

オリンピック出場経験を持つ、父親の郁栄さんをはじめ、長女・美憂さん、弟・KIDさん、妹・聖子さんとの姉弟全員がレスリング経験者という山本家。世界選手権を3度も制した美憂さんは結婚を機に一度は現役を引退した。

しかし、アテネオリンピックで女子レスリングが正式種目となることを受けて現役復帰するが、代表を逃してしまう。

失意の中、2度目の引退をするも、諦めきれなかった美憂選手は7年後の37歳でロンドンオリンピック出場を目指し、再び現役復帰をするが、またも代表から落選してしまう。

さらに4年後のリオオリンピックには、国籍をカナダに変えて悲願の出場を目指したが、手続きの問題で断念を余儀なくされるなど、悲願のオリンピック出場を幾度となく逃してきた。

そんな美憂選手は2016年、42歳で大きな決断を下した。それが総合格闘技への転向。その理由は「オリンピックに出られなかった悔しさから」と報じられたが、そこには別の理由があったという。

「その時は表には出さなかったんですけど、ちょうど弟の病気を知って。自分の大事な弟が病気と聞いたら心配だから。目の前で、見えるところにいたいという気持ちがあって、自分が総合格闘技(MMA)を始めた。もちろんコーチは弟だから、ずっと一緒にいられると思って」

当時、公に発表はされていなかったが、2016年にKIDさんにがんが発覚。それを知った美憂選手は、KIDさんの看病を手伝いながら側にいたいという気持ちから総合格闘技への転向を決めた。

レスリングから一転、姉と弟の二人三脚での挑戦が始まったが、美憂選手は「もうコーチになったら(KIDは)本当に怖かった。私をリングに送り出すためにはちゃんとさせないと危なくて上げられないから。すごく厳しかったです」と振り返る。

闘病生活を続けながらコーチとして指導をしてくれたKIDさんの支えもあり、転向から3ヶ月後に総合格闘技デビューするも、厳しい洗礼を受け初戦はKO負け。その後も勝ち星に恵まれず、なかなか結果が出なかった。

そして、KIDさんのがん発覚から2年が経った2018年。KIDさんの容態が悪化し、療養のためにグアムへ移ることに。

一緒について行った美憂選手は、2ヶ月後に控えていた試合を欠場しようとするが、KIDさんは「(俺は)大丈夫だから、勝てるから、試合をしてほしい」と背中を押した。そして、美憂選手も勝ってKIDさんを喜ばせたいと思い、試合に出場。いつもはセコンドにいるKIDさんがいない初めての試合だったが、見事に勝利し、KIDさんとの約束を果たした。

自分が戦って勝てばKIDさんが喜んでくれると、美憂さんは追加の試合を懇願。KIDさんの容態が徐々に悪化する中、戦う姿を見せたいと試合を組んだ。

だが、KIDさんの病状も進行し、2018年8月26日にがんであることを公表。しかし、それからわずか23日後の9月18日にKIDさんは亡くなってしまう。それは、美憂選手の試合のわずか12日前だった。

「トレーニングを止めることは(KIDも)ふざけるなって思うから、それだけはしたくなかった」と、最愛の弟が帰らぬ人となったその日もジムでトレーニングしていた美憂選手。

KIDさんが天国へと旅立ってから12日後、KIDさんの入場曲にのせて美憂選手はリングへと立ち、見事勝利した。

コーチでもあったKIDさんを亡くした美憂選手は総合格闘技を続けていくのか?

その答えを美憂選手は「自分がやりたいと思っているうちは、絶対に妥協せず頑張ります。でないと、(KIDに)怒られる。本当に怖いんです。私もアーセン(美憂の息子)も何回も泣かされてる」と話した。

スタジオでは浜田さんから「KIDさんはどんな弟だったか」と問われると、「すごく強い。小さい頃から弱音を吐かなくて、最後も弱音を吐かずに逝っちゃいました」と振り返っていた。
 

アメリカへの野球留学が転機に!

 
 

2019年3月に45歳で引退を発表したイチローよりも5年長く現役を続けた“球界のレジェンド”、元中日ドラゴンズの山本昌さん。

キレのあるストレートと、決め球のスクリューを武器に、3度の最多勝をはじめ、数々のタイトルを獲得。1994年には19勝をあげ、投手最高の栄誉である沢村賞を受賞。41歳の時には、史上最年長でノーヒットノーランを達成。

以降も歴代最年長の42歳で通算200勝、史上初の50歳での登板など13個もの歴代最年長記録を樹立している。

そんな山本さんだが、過去にクビ寸前のとんでもない挫折を味わっていたという。

1983年に18歳で中日ドラゴンズに入団したが、入団から4年間で出場した試合はわずか4試合で勝ち星はなし。当時を「1年目の冬からクビの候補に名前が挙がっていた」と振り返った。

そうして迎えた5年目の1988年、ドラゴンズはアメリカでキャンプを行っていたが、このキャンプに向かう前に、当時の監督、星野仙一さんは「キャンプが終わったら、アメリカに残れ」という、山本さんをどん底に突き落とす言葉を投げかけた。

4年間クビ候補だった山本さんは、アメリカに残され、野球留学でドジャースのマイナーリーグ「1A」、日本で言えば4軍にあたるチームに所属することに。

「落ち込みましたね。(当時は)今年最後のつもりでやっていたのに、非常にガッカリしました。本当に冗談じゃねーぞって思いました」

そんな中、山本さんは、アメリカでのシーズンに入ったある日の練習中に、チームメイトの内野手が外野で遊びながら変化球を投げ合っている姿を目撃。それは日本で見たこともない変化球だった。この時、無名の内野手から教わった変化球が、後に代名詞となる決め球のスクリューボールだった。

新たな武器を手に入れた山本さんは、その後、4ヶ月で13勝を挙げ、1Aのオールスターにも選ばれるほど活躍。想定外の成長ぶりを聞いた星野監督は、当時、日本で優勝争いをしていたドラゴンズに山本さんを呼び戻した。

山本さんのスクリューボールは、日本の打者を翻弄し、4年間で一度も勝てなかった男が、たった2ヶ月で無傷の5連勝を挙げ、リーグ優勝に貢献した。

そして2015年、惜しまれつつも50歳で現役を引退。プロ野球史上最長の現役32年、対戦した打者は13862人、投げた球は53760球と、まさに前人未踏の記録を残した。

 
 

スタジオでは、長すぎる現役生活の中で起こった2つの“珍現象”を紹介。

まず、50歳まで現役を続けたことで、監督が年下になってしまったという“珍現象”を。2015年の各球団監督は、巨人の原辰徳監督が56歳、横浜の中畑清監督が61歳と年上の監督もいる一方で、中日の谷繁元信監督は44歳、広島の緒方孝市監督は46歳、ヤクルトの真中満監督は44歳と、続々と年下の監督が登場。

「監督が年下ってやりにくくないの?」と問われると山本さんは「監督発表の前日まで(谷繁さんを)『シゲ』と話し掛けていたんですけど、発表されてから『おはようございます!監督』って。野球界は監督が上なので、その日からずっと谷繁さんには敬語。(谷繁も敬語は使わなくていいと言うが)向こうも敬語で話してくれて、僕も最後まで敬語」と明かした。

さらに、抱っこした赤ちゃんが後のチームメイトになるという“珍現象”も。

山本さんは「堂上直倫という選手がドラゴンズにいるんですけど、彼の父親、堂上照と一緒にプレーしていたんです。その子ども、剛裕と直倫は二人ともドラゴンズに入ったんですけど、小さい頃に抱っこしているんです」と告白。

幼い頃に山本選手が抱っこした子どもが野球選手になり、さらにはチームメイトになるという出来事に浜田さんも驚いていた。
 

令和でもメダルを!

 
 

アーチェリーのオリンピックメダリスト・山本博選手。

その経歴はまさに超人で、中学入学をきっかけにアーチェリーを始めると、高校ではインターハイ3連覇。大学でもインカレ4連覇と学生時代は負けなしの完全制覇。

大学3年生で初めて出場したロサンゼルスオリンピックでは銅メダルを獲得するが、それ以降3度のオリンピックに出場するもメダルには届かず。

アーチェリー選手のピークは30代前半と言われる中、41歳で出場した5度目となるアテネオリンピックで銀メダルを獲得。20年ぶりのメダル獲得は、個人種目において夏季オリンピック史上、世界でたった1人しか成し得ていない歴史的快挙だという。

 
 

あれから15年、現在56歳になった山本さんは「もう1回メダル取りたいんです。まだ、金メダル取っていないし」と、来年の東京オリンピックに向け、日本体育大学で教授を務める傍ら、日々トレーニングに励んでいた。

しかし、競技生活43年にして、「老化」という大きな悩みも抱えているという。「もう老眼で、練習で疲れが溜まると歯に炎症が。それから耳鳴り、首のヘルニア、右肩の棘上筋の断裂、腰のヘルニアで右足の指先がしびれている」と告白。

だからこそ、授業の合間など、少しでも時間ができれば筋トレを行っているという。

スタジオで「年齢を重ねることのメリット」について聞かれると、山本さんは「ないです!」と断言。

また、来年の東京オリンピックに向けて「出たいです!昭和で銅メダル、平成で銀メダル、令和で金メダル!」と意気込んだ。
 

『ジャンクSPORTS』毎週日曜日夜7:00~8:00放送