ただの“権威”でしかないノーベル賞は、もはや不要

ボブ・ディランの受賞騒動に見る、「ノーベル賞」不要論。

カテゴリ:ワールド

  • ノーベル賞は「権威」になっている
  • ノーベル経済学賞、ノーベル平和賞も同様
  • 経済学者の中には、「不要論」を唱える人も

国中のおとうさん おかあさんよ

わからないことは批評しなさんな

むすこやむすめたちはあんたの手にはおえないんだ

むかしのやりかたは急速に消えつつある

あたらしいものをじゃましないほしい

たすけることができなくてもいい

とにかく時代はかわりつつあるんだから

(ボブ・ディラン 「時代は変わる」 The Times They Are a-Changin' 1964年)

※片桐ユズル氏訳より

Come
mothers and fathers

Throughout the land

And don't criticize

What you can't understand

Your sons and your daughters

Are beyond your command

Your old road is rapidly agin'

Please get out of the new one

If you can't lend your hand

For the times they are a-changin'

ボブ・ディランへの批判でノーベル賞の本質が明らかに

ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞は、受賞そのものに反響や様々な賛辞、批判等が相半ばした。

純文学の分野の文壇の人の中では、口を極めて批判する人と手放しで礼賛する人、日本では村上春樹さんが今年も受賞しなかったことで残念な気持ちを示したファンの方々…、いろんな風景を見た10月だった。

個人的なことで恐縮だが、大学生のころまで、ボブ・ディランの1962年のデビューアルバムから1976年までの作品を何度も聞いた。経済学部の卒業論文なのにボブ・ディランの歌の歌詞を引用などもした。

冒頭に記した歌詞はティーンエージャー当時一番好きだった歌のフレーズで、自分が父親になって、さらにすでに子供が成人、独立した今も一番好きかもしれない(いかようにも政治的メッセージや哲学が解釈できる「激しい雨が降る」「風に吹かれて」などが今回マスメディアで多く取りあげられ、引用するならその2曲の方が通(つう)ぽっくってカッコいいかもしれないが…)

個人的なことはここまで。さらに詳しいボブ・ディランのことは、ボブ・ディランが20歳代、30歳代だったころに、同時代的に青春時代だった団塊の世代以上の人たちに詳しい人たちが大勢いるので、専門家に聞くのがいい。

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ノーベル文学賞の発表のあと、2週間ほどボブ・ディランが沈黙を守り、ノーベル賞の事務局と連絡が取れないままだったことに、選考委員の人が「無礼で傲慢だ。前代未聞だ。ノーベル賞を欲しくないのだろう。自分はもっと大物だと思っているのかもしない…」と語ったことが外国からのニュースで報じられていた。

この人物の発言の全体のコンテクストがわからないが、メディアがこのことをニュースとして報じるという現象自体が、ノーベル賞自体が“権威”になっていることを浮き彫りにしていると思う。

シンガーソングライターがノーベル文学賞を受賞することの是非とは別に、歌は詩(歌詞)だけでもなく音楽だけでもなく、その2つが不思議にまじりあって、さらに、その歌手が歌うというパフォーマンスからしかにじみ出ない“持ち味”があり、それに感動する人がいるということがすべてではないか。

ビートルズの曲を別のグループが歌って演奏してもビートルズの持つ独特のパンチ感は絶対に醸し出されないだろう。

文学のことはわからないが、ある人は村上春樹さんの作品に感動したり、様々なことに触発されたりするかもしれない、それはそれで素晴らしいことで、そのこと自体が得難い体験であれば、その人たちにとって十分素晴らしいのであり、別に“権威”になってしまっているノーベル文学賞などなくてもいいと思うし、受賞がないことを残念がる必要も全くない。芸術はそういうものではないか?

なので、ボブ・ディランがノーベル賞を受賞するかしないか、授賞式に出席するかしないかは、彼の歌に何かを感じた人にとっては、一部の権威に異常に意味を見出す人たちを除けば、ある意味ではどうでもいいことだ、と思うのである。

(ある人はテレサ・テンや美空ひばりの歌こそが世界最高の芸術と思うかもしれないし、AKB48のパフォーマンスを最高の芸術と思うかもしれないし、生きていたら梶井基次郎や芥川龍之介の小説こそノーベル文学賞にふさわしいと思うかもしれない。ノーベル文学賞はノーベル文学賞の選考委員の人たちが話し合って決めた結論でしかない)

ノーベル賞はもはや「権威」でしかない


同じことは、どうもノーベル経済学賞、ノーベル平和賞にも通ずるのではないかと感じることがある。

そもそも、ノーベル経済学賞は実際にはノーベル賞ではない。

ノーベル経済学賞は、正式名称を「アルフレッド・ノーベル記念 スウェーデン国立銀行経済学賞」といい、ダイナマイト発明のアルフレッド・ノーベルの遺言にちなんで設立され1901年から始まったノーベル賞のあと、1968年にスウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環として、ノーベル財団に働きかけ、できた賞である。(ノーベル財団は、ノーベル経済学賞を「ノーベル賞」とはしていない)

しかし、ノーベル賞のくくりの一つ、と世間で見られることが慣例化してしまって以降、その“ノーベル経済学賞”を政治思潮のなかで“権威”として扱われることが欧米、特にアメリカを中心に1970年代からみられることになった。
例えば、貨幣の量を変化させれば景気にほぼ自由に操作できるという考え方や学説に立つ、貨幣数量論やマネタリズムなどは、1977年にミルトン・フリードマンが受賞したことで、シカゴ学派と言われる経済学が主流となり、その後、市場原理に重きを置くアメリカの政治思潮の「新自由主義」の理論武装にも使われた。

その後の受賞では、1997年の金融派生(デリバティブ)商品の価格決定の新手法のブラック・ショールズ方程式というものが選ばれ、一部の経済専門家はこうしたことも、21世紀の金融のグロテスクな肥大につながった、と批判する向きもある。

ノーベル経済学賞はその後、特に2008年のリーマンショック以降は2009年に経済学者以外が受賞したりなど、それまでの選考とはやや違うものも出てきている(市場に関するものだけでなく、コミュニティによるガバナンスの必要や貧困、福祉、契約、労働のミスマッチとマッチに関するものなど)。

私は、リーマンショックを、近代資本主義の行き着いたなれの果てだと思っていて、その最後に金融が実物経済を凌駕せざるを得ないほどの拡大する資本主義の行き着いた果てだと思っているが、そこまでの間、1970年代からの30数年、ノーベル経済学賞が“権威”として受け取られたことを政治思潮(特にアメリカ)が取り込んだことも影響しているのではと考える。

経済学は、実験のできない学問、と言われる。
もし、ある学説を政治家が経済政策の根幹に据え“これがすべてである”として喧伝し、大衆を巻き込んだ場合、数年後数十年後に大不幸を生み出した場合、誰が責任をとれるのか?不幸に陥った人たちは理論上“経済学の実験”に被害者になるのである。その意味で自然科学と異なり、実験はできない学問だと思う。

しかし、政治家が「ノーベル経済学賞を受賞した学者もこう言っている」「ノーベル経済学賞受賞の学者の意見を深く聞く」ということが表に出るような演出をして経済政策を決めると思わざるを得ないケースも日本でも欧米でも散見してきた。

経済学者の中には、「経済学は、市場原理と規制のさじ加減、そこをどれが正しいかと一方的に決めるのでなく、日々の現実と向き合いながら、かなり悩みながら、どういう分析ができ、最後はそれが人々の生活や幸せにどうつながるかを、もがき続けながら探る学問である」という点で、ノーベル経済学賞が本当に必要か、と疑問を持つ人もいる。私自身も同感だ。

経済学に必要なものは、イギリスの経済学者、アルフレッド・マーシャルの言葉「クールヘッド、ウォームハート」(冷静な頭と温かい心)、「経済学者は冷静な頭脳と温かい心を持たねばならない」(1885年ケンブリッジ大学経済学教授の就任講演)に尽きるのではないだろうか。

その点が忘れ去られ、難解な「経済学学」のようにならないためにも、ノーベル経済学賞が今後も存在するなら、変化を余儀なくされるだろうし、リーマンショック以降は変化しているようにみられる。

20世紀に見られた政治思潮が“権威”としてノーベル経済学賞受賞の学説を取り込むような風潮、傾向が続くなら、ノーベル経済学賞などなくした方がいいとも思う。
もともと“ノーベル賞ではない”ともいわれる、「ノーベル経済学賞」は今後、どうなっていくのか注目したい。

(ノーベル平和賞はノーベルの遺言にもとづく“正規のノーベル賞“であるが、“権威“化され、政治的判断に使われることはないのか、それに言及するほどの蓄積は筆者にはないが、1人の記者としてはノーベル平和賞の受賞理由に係る政治的判断的な可能性については、思うところもある)