私は、1959年8月9日に長崎で生まれた。原爆投下のちょうど14年後だった。義務感というか、儀式のように、毎年8月9日には黙とうしたり、長崎原爆の日のニュースを見たりしていたのだが、ことし(2017年)は強い違和感を覚えた。
日本政府が核兵器禁止条約を批准しなかったことに抗議して、被爆者団体の代表が、安倍首相に「あなたはどこの国の総理ですか。私たちを見捨てるのですか」と詰問したのだ。


私の母は、原爆投下時に長崎市内に住んでいたが、被爆はせず、健康被害もなかったので、私にとって原爆というのは、あまり現実味がなかった。それが、ある年に法改正がされ、爆心地の近くに住んでいたという証言が2人から得られれば、健康被害がなくても、被爆者に認定されることになり、母に被爆者手帳が交付された。医療費の自己負担が無料になり、今は年金も、いくらかもらっている。私は法律上(?)、被爆2世ということになり、年1回無料で健康診断を受けられることになったのには驚いた。 初めて、戦争や核兵器と自分との接点を感じた。

 
 
この記事の画像(2枚)

核兵器禁止条約を批准しなかった批判は理想的ではあるが…

北朝鮮のミサイル開発については、とても現実的に恐怖を感じた。またあの地獄が再現されるかもしれないのだ。子供の頃にやけどをした顔を隠しながら歩いている被爆者の女の人を見たことを思い出したりした。  

核兵器禁止条約を日本が批准しないことに対する批判は、ある程度説得力がある。唯一の被爆国である日本が、核兵器禁止を唱えなくて誰がするのだ、ということだろう。ただこの批判は理想ではあるが、現実的ではないと言わざるを得ない。少なくとも現在の北朝鮮が、話し合いで核廃絶に応じるとは考えられない以上、アメリカの核の抑止力は日本を守るため、日本人の命を守るために欠かせないものだからだ。 

核攻撃から日本を守らなければ…

国連の会議場で、「核のない世界を作ろう」と誓い合っても、世界の核はなくならないだろう。そもそも世界の核がどうこう言う前に、まずわれわれは、二度と核兵器で攻撃されたくない、それだけなのだ。そのためには、理想など横に置いて、現実的な手段を考えなければならない。見捨てるとか、見捨てないとかそういう話ではない。核攻撃から、この日本を守らなければならないのだ。  

毎年、この季節になると、母は原爆のことをポツポツと話す。隣のおばさんにリンゴをもらって玄関先で食べていた時にピカッと来たが、山の影になっていたので助かったとか、父(私の祖父)が、爆風でやけどをしたが、薬がなく柿の葉を貼って治った、やけどだけで被爆はしなかったとか。この次に帰省した時に、また話を聞いてみようかなと思っている。

平井文夫
平井文夫

言わねばならぬことを言う。神は細部に宿る。
フジテレビ報道局上席解説委員。1959年長崎市生まれ。82年フジテレビ入社。ワシントン特派員、編集長、政治部長、専任局長、「新報道2001」キャスター等を経て現職。