「日本のパラリンピックを創ったチェンジメーカー」(前編)

「別府に日本のパラリンピックの父といわれる人がいたのをご存知ですか?」 今秋、あるイベント関係者からこんなことを聞かれ、おもわず著者は「別府って、大分の別府ですか?」と聞き返した。

カテゴリ:国内

  • 「日本のパラリンピックの父」中村裕博士(1927~84)。
  • パラリンピックの発祥の地は、ロンドンといわれている
  • 東京パラリンピックの開催・参加にこぎつけ、自ら日本選手団団長となる

2020年、東京に五輪がふたたびやってくる。

前回1964年の東京五輪は、戦後復興の象徴であったと同時に、初めて「パラリンピック」という名称がつけられた大会でもあった。

東京は同一都市でパラリンピックを2回開催する初めての都市となる。

パラリンピック発祥の地はロンドン

パラリンピックの発祥の地は、ロンドンといわれている。

第2次世界大戦で負傷した兵士の治療と社会復帰のため設立された、ロンドン郊外のストークマンデビル病院で、手術よりスポーツがリハビリに効果があると、車いすアーチェリー大会を開いたことがきっかけだった。

その後、この車いすアーチェリー大会は、他国も参加する国際大会となり、1964年の東京五輪で初めて「パラリンピック」という呼称が使われた。

1964年東京五輪で初めて「パラリンピック」という呼称

「パラリンピック」の「パラ」とは「パラプレジア(脊髄損傷による下半身麻痺)」にちなんだものだ。

その後パラリンピックには脊髄損傷だけでなく、さまざまな障がいを持つ選手が参加するようになったため、「パラ」=「パラレル」、つまりオリンピックと並行して行われる大会と再定義されることになった。

「別府に日本のパラリンピックの父といわれる人がいたのをご存知ですか?」

今秋、あるイベント関係者からこんなことを聞かれ、おもわず著者は「別府って、大分の別府ですか?」と聞き返した。
その関係者から、「日本のパラリンピックの父」についてシンポジウムが別府で開かれると聞き、興味を持った著者は迷わずそのシンポジウムに参加した。 

「日本のパラリンピックの父」と言われているのは、中村裕博士(1927~84)。
類まれな発想力と強い意志で、日本の障がい者の歴史を変えたチェンジメーカーだ。

中村さんは1958年に国立別府病院に着任し、脊髄損傷による患者の治療やリハビリの研究にあたっていた。

当時日本でリハビリは「未開の分野」だった。

そこで中村さんは、1960年に前述したイギリスのストークマンデビル病院に留学した。この留学が、後に日本の障がい者スポーツの歴史をつくることになるとは、当時30代の若きドクターは想像さえしなかっただろう。

 中村さんは、ストークマンデビル病院の脊髄損傷センターで、車いすの障がい者がバスケットボールを行っているのを見て衝撃を受けた。

当時の日本では、車いすの障がい者が社会復帰することさえ困難で、ましてスポーツをすることなど考えられなかったからだ。

さらに中村さんにとって驚きだったのは、このセンターでは、8割以上の患者が社会復帰を半年以内に遂げていたことだ。

日本での社会復帰率は当時2割程度。舗装されている道路が少なく、エレベーターも普及していなかった当時の日本では、車いすで外を移動することは難しく、さらに障がい者に対する社会の偏見も強い中、ほとんどの患者が家から外に出ることさえままならなかった。

「スポーツは、障がい者の健康維持だけでなく、積極性や社会性をもたせるうえでも優れている。」

そう考えた中村さんは、帰国後早速、車いす障がい者のリハビリにスポーツを取り入れた。しかし当時はまだ、障がい者がスポーツをすることに理解を示す人は少なく、「障がい者をさらし者にするのか」と社会の批判を浴びたという。

だが若きドクターは信念を曲げず、61年には日本初の障がい者スポーツ大会を地元大分で開催。さらに厚生省(現・厚生労働省)と交渉を続け、東京パラリンピックの開催・参加にこぎつけた中村さんは、自ら日本選手団の団長となった。

 別府で行われたシンポジウムでは、東京パラリンピックに車いすバスケットボールの選手として出場した須崎勝己さんが当時のことをこう語った。
「まだ病院でリハビリしていたとき、パラリンピックがあると聞きました。中村先生は、『選手が決まってないから、お前は力がありそうなので出ろと(笑)』」

 指名されたとき須崎さんはバスケットボールの経験がなかったという。

「日本の選手は半分は関東から、半分は別府から出場しました。選手一人一人に車いすがなくて、渡された車いすはスタンダードなものでした。外国人選手はスポーツ用のものを使っていたのですが、車輪が斜めになっているのを初めて見たので、外国の車いすは雑な作りなんだなあと思いました(笑)。」

 しかし、熱戦に沸いたパラリンピックの会場で、中村さんは新たな問題に直面する。

外国人の選手たちは、試合が終わると買い物や食事に出かけるが、日本人の選手たちはどこにも出かけない。
なぜなら外国人選手は障がい者であっても健常者と同じように仕事を持ち、所得があるが、日本人の選手は「家族に養ってもらっているので、そんな贅沢はできない」という。

外国人選手のはつらつとした姿に比べ、中村さんは「日本人は病人のようだ」と感じた。
チェンジメーカーの新たな挑戦、「障がい者に雇用を」はここから始まった。

「写真提供:社会福祉法人太陽の家」