女性運動が噴出したきっかけに

敗北演説をするヒラリー・クリントン氏 2016年11月11日
敗北演説をするヒラリー・クリントン氏 2016年11月11日
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トランプが当選した日。私がよく覚えているのは勝利に頬を紅潮させた共和党の陣営ではなくて、ヒラリーの素晴らしい敗北演説だった。この人ほど、威厳にみちた敗北演説が似合う人はいない。彼女が負けた原因は戦略ミスであり、メール問題のくすぶりであり、黒人を十分に動員できなかったからだった。バーニー・サンダース氏と戦う中で彼女が経済政策で左傾化していった過程には私は同意できなかった。それでも、ヒラリーという女性は大人の女性たちの星だったし、彼女の人間性も知性もまた明らかだった。

トランプは「冷酷」だとは言われない。オバマは「権力の亡者」とは言われない。しかし、ヒラリーは必ず権力に飢えた冷酷な女だと言われ続けた。それは、権力を「女」が目指したからというだけの理由だった。リーダーであるためには、ときに大局観に立たねばならない。相手に勝ちを譲るのではなく、自己中心的に勝とうとしなければならない。女性が共感を勝ち得るためには、こうした男性リーダーが当たり前にすることをすると不利になるのである。しかも、それをしなければ、勝てない。

こうして、トランプ当選の瞬間は、米国社会で女性がリーダーになるということの困難さを再確認するものだった。だがそれと同時に、2016年の大統領選では女性問題が強く意識されるきっかけも作られた。トランプ大統領の女性問題や共和党の男性の差別意識が明らかになっただけではない。むしろ民主党やリベラル陣営にも女性差別、蔑視が内包されていることを段々と明らかにしていったのである。

いま世界中を揺さぶっている#MeToo問題は、この選挙戦を通じて女性問題が意識されたことによって生じたものだ。ハリウッドの偽善が暴かれ、リベラルなはずの世界でも女性が搾取されてきたことが知られた。サンダース陣営の中における女性蔑視も糾弾されるところとなった。現在、2020年の大統領選に出馬を表明したばかりのバイデン元副大統領でさえ、不適切な行為があったと告発を受けているほどだ。

出馬表明をしたバイデン候補
出馬表明をしたバイデン候補

そうして、2018年の中間選挙では白人女性のリベラル化が起きた。女性票は確実に掘り起こされ、民主党の下院奪還に貢献したのである。

他方で、共和党のなかにも女性問題で足を掬われてはならないという自衛意識が強まった。保守の内なる改革者として大統領の娘であるイヴァンカ・トランプ氏が出てきたことも注目すべきだ。イヴァンカ氏は選挙戦中から子育て世代の税額控除に力を入れた。現在は、民主党の改革案とは異なるが、共和党が呑めるような育休制度導入案に尽力している。以前の共和党の女性が男性とほぼ変わりのないタカ派さや強さを打ち出してきたのに比べ、イヴァンカ氏のアプローチはもう少し軽やかだ。

イヴァンカさんと子供たち (写真:本人のツイッターより)
イヴァンカさんと子供たち (写真:本人のツイッターより)

共和党は岩盤支持層の民意を掻き立てるには今のところ「社会保守」を打ち出さねばならない。けれども、世代交代は徐々に共和党の支持者の価値観さえ変えていくものだ。共和党の価値観のリベラル化は、少なくとも男女問題に関しては進んでいくであろう。それは、まさにヒラリーがトランプと全力で戦って見せたからこそ起きたことなのである。

人種問題に関しては後退

しかし、明確に後退した問題もある。トランプ大統領の当選は、米国における人種問題の後退を示すものだった。それは、人種間の分断が煽られたからというだけでなく、オバマ大統領の8年間を通じて存在した、黒人が大統領になっているという躍動感が消えたからでもある。「オバマ大統領は何もできなかった。それは彼のせいじゃない。しかし、何も変わらなかった。」この言葉を私に言ったのは、ブルックリン在住の黒人の青年だ。

2016年の9月、私テレビの特別番組の取材で米国入りしていた。私たちはツイッターで検索しても数件しか呟かれていない日曜13時開始の黒人デモを見に来たのだ。Black Lives Matter Greater NYと書かれた横断幕と、犠牲になった黒人の若者の写真を印刷したTシャツをもって、デモ隊がスーパーの前に集まっていた。ノースカロライナ州のシャーロットでは流血の惨事が起きていた頃だ。

(撮影:三浦瑠麗)
(撮影:三浦瑠麗)

彼らが細々と集まった支援者に訴えたのは不当逮捕の削減と刑務所改善だった。私は彼らのデモの間ずっとついて回り、取材をした。彼らの口から出てきた要求や不満は、みなローカルな政治レベルの話だった。貧困者の抱える切実な住宅問題、治安、不当逮捕の問題。どれも国政を賑わせているような論点ではなかった。そして、リベラルな州であるニューヨーク州在住の彼らの抗議行動の対象は、まさに民主党の政治家であり、リーダーであった。

こうした活動家だけではない。米国の黒人有権者はただでも投票に壁が存在しているうえ、政治にもはや関心を抱かない、自分が代表されていないと感じるためにそもそも投票に行こうとしない層が数多く存在する。投票の壁というのは、人種差別的な法律(ジム・クロウ法)などはもはや存在しない代わり、貧しい黒人にとって事実上投票を難しくするような障壁があるという意味だ。その一つ目が有権者登録。身分証明書が複数必要だとか、能動的な登録をする必要があるといった壁が生じている。二つ目に、投票所の利便性である。マイノリティが多い地域の投票所が少ないと、長い行列ができ、投票に障壁が生じるからだ。あるいは平日(火曜)に投票しなければならないという決まりは、投票所の混雑と相まって立場の低い労働者の投票を困難にする効果を持つ。三つ目に、受刑者だけでなく元受刑者の投票を制限する規則が州によって厳しいところがあることも受刑者の占める割合が高いマイノリティを不利にする要素となっている。

黒人などマイノリティのおかれた初めの境遇格差、機会格差は、大きな政治運動に繋がるのではなく、しばしば無力感を生み出す。しかし、人種問題を大統領選における全米の論点として取り上げる場合、よほど動員力のある候補でない限り、ヒラリーのように失敗するはめになる。黒人の人口に占める割合が大きい南部諸州や、黒人票が僅差を左右しうるオハイオ、ペンシルバニア、ミシガンなどのパープル・ステートにおける誤算が示しているように、民主党の中央のエリートからする人種問題の提起は、先ほどのようなデモに参加した普通の黒人の共感を必ずしも得られないからだ。経済格差・機会格差を真に是正しない限り、黒人問題を関係のないエリートが政治利用していると取られるだけで終わってしまう。
 

アイデンティティ・ポリティクスの行き着く先

さて、ここまでは米国の社会問題に焦点を当てて、トランプ大統領当選によって生じた二つの転機を述べてきた。こうした人種や性別などのアイデンティティに着目した政治を、アイデンティティ・ポリティクスという。米国政治が今後ますます経済政策の左右をめぐる対立ではなくアイデンティティ・ポリティクスの対立になっていくとすると、どういったことが起きるか。

確実に言えることは、米国政治の争点がグローバルな争点からますますかけ離れていくということだろう。その結果、米国の世界における存在感は低下していくことになる。アイデンティティ・ポリティクスの諸力は外に向かう力ではなく、裡に向かう力だからである。そうすると、日本が当たり前のように受け入れ、あるいはときに抵抗してきた覇権国家としての米国のイメージは薄れゆくだろう。

冷戦期も、米国の民主党と共和党は公民権問題などの人種問題をめぐって対立していた。それは間違いない。しかし、その時代、米国は始終兵士を動員した戦争を戦ってきた。対立する政権による戦争を批判したり、自分たちが政権を握った暁には新しい戦争を行うことで、外に向かうエネルギーが作り出されてきた。しかし、現在の米国では戦争を戦うことへの関心は低い。

トランプ外交のアメリカ・ファーストの理念はイラク戦争とアフガニスタン戦争の失敗の結果として誕生したものである。これらの戦争によって厭戦感が深まった結果として、米国は内向きの孤立主義へと回帰していっている。それは必然的な動きであり、平和の代償であるともいえるだろう。そもそも近年では多くの対テロ作戦が特殊部隊やCIAを用いて秘密作戦として行われており、国民に開示しないままにひっそりと行われる。政治が繰り広げる表の言説と裏の行動が乖離していくことによって、国民はますます国際情勢に関心を失うだろう。

内向き化はトランプ大統領陣営にとどまらない。民主党のなかにも、ときにはトランプ以上に明確な内向き化の流れが見て取れる。そうしてみると、2016年という年はやはり大きな意味での「冷戦後」の終わりであったと位置づけることができるだろう。「冷戦後」とはそもそも明確な名前の与えられていない中途半端な移行期でしかなかった。それが2016年には終わったのである。

平成の30年間は、世界を見ればほぼ「冷戦後」と歩みと同じくしている。平成が終わり令和の時代を迎える今、日本はポスト「冷戦後」時代の国際秩序変動に直面することになるだろう。奇妙なほどの安定を達成した平成に比べ、令和の時代は激動の時代となっていくことを胸に刻んでおくべきだと思う。

【執筆:国際政治学者 三浦瑠麗】

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三浦瑠麗
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人々の考えや行動が世界にどんな変化をもたらしているのか、日々考えています。リベラルのルーツは「私の自由」。だけどその先にもっと広い共感や思いやりを持って活動すべきじゃないか、と思うのです。でも、夢を見るためにこそ現実的であることは大事。。
国際政治学者、山猫総合研究所代表。代表作は『シビリアンの戦争―デモクラシーが攻撃的になるとき』岩波書店(2012)、『21世紀の戦争と平和ー徴兵制はなぜ再び必要とされているのか』新潮社(2019)。成長戦略会議民間議員、フジテレビ番組審議委員、吉本興業経営アドバイザリー委員などを務める。