「タリバンと組んでアメリカを倒さないか」

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フジテレビアフガン支局で過ごす最初の夜。テントの中は思いのほか暖かかった。明日の打ち合わせをしていると、自動小銃を持ったタリバン兵が突然テントの中を覗き込み、そして許可なく入ってきた。一瞬緊張が走ったが、顔はまだあどけない青年だった。タリバンとは、敬虔なイスラム教徒で、教育程度も高いと聞いていたが、彼はおもむろにこんなことを言い始めた。

「日本はロシアに戦争で勝った。そして、アメリカには戦争で負けたが、その廃墟から、アメリカを脅かすほどの経済復興をなしとげた。我々は日本を尊敬している。」

昔からロシアは、不凍港を求めて何度となくアフガニスタンに侵攻していた。そのロシアを破った日本。そして、今現在、この国を圧倒的軍事力で制圧しようとしているアメリカと戦争し、敗れはしたものの、経済復興をとげ、アメリカと経済摩擦を起こすまでになった日本。

「タリバンと組んでアメリカを倒さないか。タリバンの精神力と日本の技術力があればできる。どうだ」
僕らは、タリバンと組むも組まないも決定する権利はないが、銃を持った相手を目の前に完全否定もできなかった。

「日本は憲法で戦争を放棄することが定められている」僕はそれだけを答えた。

施設の中のタリバン兵は自動小銃を持っていた
施設の中のタリバン兵は自動小銃を持っていた

爆撃機が飛ぶ音と爆弾が落ちる音を聞きながら

タリバンの若い兵士は、理解したのかどうか判らないが、あっさりとテントから出て行った。その日も、遠くで爆撃機の飛ぶ音と、爆弾が落ちる音が聞こえた。慣れるにはまだ早いが、初めて聞くときほどは動揺しなくなっていた。CNNのテントの横だから大丈夫だろうと自分に言い聞かせながら、いつしか眠りに落ちた。

会見するタリバンのスポークスマン
会見するタリバンのスポークスマン

翌日、タリバンのスポークスマンを名乗る男が会見を行った。周囲を警戒する若く頑強な姿のタリバン兵もいつの間にか多数集まっていたが、それとは異なるエリートらしい風貌だった。会見は英語だったが、なまりがキツく、聞きとりにくかった。今後もビンラディンとの関係を続けるという。その内容を盛り込んで昼ニュースの中継を終えた。
相変わらず、近くの住民が電線にとまった鳥のようにずらりと塀の上に座っていた。

塀の上から会見を見守る市民
塀の上から会見を見守る市民

昼食を終えて夕方のニュースに向けての準備を進めていた時、ドスッドスッツと石が飛んできた。外国メディアを空爆を続ける敵と同類と判断したのか、一斉に投石してきたのだ。僕らのテントは塀から遠いところにあり、いくつかが近くに届くかどうかだったが、身の危険を感じるのには十分だった。間もなくタリバン兵が、空中に威嚇射撃を行い、投石住民は蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。その一部始終は、カメラマンが撮影していた。

タリバンのスポークスマンは、役目を終え、施設の門を出て右に曲がり、カンダハールの方へ帰って行った。会見があまり面白い話ではなかったこともあり、夕方のニュースの中継はカメラマンが命がけで撮影した投石をされた映像を使い、我々がタリバンの施設の中にいて自由に出られる状況にないことや、パスポートを取り上げられていること、そして投石にあったことも言及した。

日本から帰国命令

国境地帯の市場
国境地帯の市場

東京はこの中継の内容を「危機」と判断した。僕は、タリバンのスポークスマンと同じように、門を出て右に曲がりカンダハールに向かうことも考えていて、出発前に市場では2週間分の水と食料を買い込んでいた。
ところが東京からすぐにパキスタンに戻るように指示が降りてきた。来るときは部長の説得をはねのけたが、僕は命を預けてくれたカメラマン、VEと相談して戻ることにした。一緒に行った契約のジャーナリストはこの施設にとどまり引き続きアフガニスタンで取材を続けたいといったので、水と食料を渡した。

僕らは、シングルビザで大見えを切って出国したので、通常の手続きではない方法で入国をする必要があった。イスラマバードの日本大使館からパキスタンの外務省・法務省に要請してもらい、東京でも外務省から在東京のパキスタン大使館に働きかけてもらった。そしてパキスタン政府から特別の書類を作成してもらったのだ。

ここで、ビザなしでパキスタンとアフガニスタンを往来できる部族地域出身の不良イスラム教徒のシャーの出番だ。この書類を持って国境地帯のアフガニスタ側に行き、それを受け取った僕らが入国審査を受けるという計画だ。

僕らは門を出て左に曲がり、パキスタンの方向に向かった。途中でパスポートを取り上げられた入国審査を受けた民家に立ち寄った。ドアを開けると来た時と同じようにいろいろな国のパスポートが床一面に広げられていた。数は多かったが、僕らの赤いパスポートを探すのは簡単だった。僕・カメラマン、VEの3つ分確かにある。しかも3冊のパスポートホッチキスで一つに綴じられていた。

国境地帯の難民キャンプ
国境地帯の難民キャンプ

さっさと引き取って僕らは国境へと向かった。こころなしか難民キャンプが拡大しているような気がした。いよいよ国境というところで、シャーと再会した。得意げにパキスタン政府の書類を僕らに広げて見せた。

入国審査に現れたのは、「戻れない」と言われ「イランに抜けるから大丈夫だと」返した、あの職員だった。憶えているかいないのか、かれはパキスタン政府発行の書類を見たあと、トントンとんと、パスポートにハンコを押してくれた。僕らは、タリバン占領地域のアフガニスタンからパキスタンに戻ってきた。

近くで買ったテントのアフガン支局
近くで買ったテントのアフガン支局

それから3年後に、僕はアフガニスタンのカブールに行く機会を得た。北朝鮮も参加する会議が中東であり、日本の外務大臣がカブールに行き、ハミド・カルザイ大統領と会談をするので、そのまま同行取材をすることになった。カブールには空路入ったが、空港の滑走路はところどころ爆撃の跡が残っていた。空港からの移動は、大使館の用意した車。爆弾テロにも耐えられるように車の底に厚い鉄板が入っているという。

大統領府の近くは直線道路をわざわざ障害物を置いてジグザグ走行でしか近づけないように障害物が設置されていた。さらに自動小銃で武装したアメリカ兵が周囲を固めていた。他国の兵士に最も重要な施設を守ってもらわないといけないくらい政情は不安定なのだ。

会談を取材後に大統領府の施設を見学していると、遠くから爆発音が聞こえた。アフガニスタンの平和はまだまだ遠いなと思ったが、その状況はそれから10数年たった今も変わっていない。

パキスタン側に戻ると鉄道で戦車が運ばれていた
パキスタン側に戻ると鉄道で戦車が運ばれていた

【執筆:フジテレビ FNNプロデュース部 森安豊一」

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森安豊一
森安豊一

論より証拠。われわれの仕事は、事実の積み上げであり、事実に対して謙虚でなければならない。現場を訪れ、当事者の話を聞く。叶わなければ、現場の近くまで行き、関係者の話を聞く。映像は何にもまして説得力を持つ証拠のひとつだ。ただ、そこに現れているものが、全てでないことも覚えておかなければならない。
1965年福岡県生まれ。
福岡県立東筑高校卒、慶應義塾大学文学部人間関係学科社会学専攻卒。
警察庁担当、ソウル支局特派員、警視庁キャップ、社会部デスク、外信部デスク、FNN推進部デスク、FNNプロデュース部長を経て報道センター室長。
特派員時代は、アフガニスタンや北朝鮮からも報告。