911テロ後アフガニスタンへ 警察官の手に握らせた10ドル札が扉を開いた

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911をきっかけに始まった「アフガン戦争」

2001年、アメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルに二機の旅客機が突っ込んだ「911テロ」その首謀者のウサマ・ビンラディン容疑者をアフガニスタンのタリバン政府が匿っているとして、アメリカがアフガニスタンを攻撃する「アフガン戦争」が始まり、その取材のために、世界中の特派員が前線取材拠点のパキスタンに交代で派遣された。

首都イスラマバードでカブール入りを狙っていたが、アメリカ軍の空爆と、反乱軍の北部同盟の攻勢であっけなく陥落した。次は、タリバンの本拠地カンダハールだ。僕らは、カンダハールに程近い、クエッタという町に滞在しながら機会を伺うことになった。

まず、パキスタンの部族地域出身のコーディネーター兼通訳シャーを紹介された。当時、パキスタンにはジャーナリストが多数流入し、通訳だけでなく旅行会社の添乗員も引っ張りだこだった。日本語ができる通訳もいたが少数で、正式な通訳でなくても英語と現地語のできる若者を確保できれば御の字だった。シャーもまたその一人だった。カメラマンとVE(ビデオエンジニア)は東京から来た英語のできない日本人スタッフだった。僕はシャーと英語で話し、2人に日本語で説明する4人チームの生活が始まった。

クェッタのホテルはすでに欧米のジャーナリストで溢れかえっていた。僕らは何とか郊外のコテージを2部屋押さえることができた。カメラマンとVEは機材があるので同じ部屋に、僕はシャーと同じ部屋になった。僕は現金2万ドルをパキスタンに来るときに買った旅行者用の貴重品入れの腹巻に隠し持っていた。シャーを疑うわけではないが、これだけの大金を見ると変な欲を出すのではないかと思い、僕はシャワーを浴びるときも腹巻を手の届くところに置くように心がけた。

宿泊していたコテージは塀で囲まれていた。門から出る際に自動小銃を持った警察官が1人車両に乗り込んできた。我々の護衛をしてくれるということ、それとも監視役なのか、取材に出るときはいつも一緒だった。僕は、いつも10ドル札を持った手を「よろしく」と差し出し、握手しながらチップとして渡していた。警察官も笑顔で答えていた。

普通の民家に住んでいたカルザイの弟

クエッタでの最初の仕事は、反タリバン勢力のリーダー核のハミド・カルザイの弟とインタビューだった。後にアフガニスタンの大統領となるハミド・カルザイ。その弟は、パキスタンから兄を後方支援する活動をしていた。秘密の場所に潜伏していて、途中で目隠しでもされるかと思いきや、街中の普通の民家に住んでいた。護衛がいるわけでもなく、こちらが心配になる程だ。気さくな相手でインタビューはすんなりと終わった。当時はWi-Fiが無く、ネットの通信はもっぱら電話回線で安定性も良くなかった。撮影した映像は、衛星端末のインマルサットで行った。撮影した時間より長くかかったが、電話回線よりはましだった。

このころはイスラム教のラマダン期間中で、夜明け前から祈りの声が聞こえてきた。イスラム教では、この期間中、夜明け前に祈りを捧げ、太陽の出ている間は食事をしてはいけないことになっていた。ところが、一緒にいたシャーはいつも寝坊していて、僕が「お祈りの時間だよ」と声をかけて起こしてあげていた。またコテージの一角にあるレストランで僕らと一緒に朝食をとり、店長に「お前はイスラム教徒じゃないのか」と叱られていた。不良イスラム教徒といったところだろか。

足を負傷した少年

数日後、地元紙に載った記事の内容を後追い取材することになった。アフガニスタンの子供がアメリカ軍の空爆に巻き込まれ、国境を越えたクェッタの病院に運び込まれた。両足を切断する手術を受け、かろうじて命は助かったというのだ。シャーに手配してもらい僕らは入院先の病院に出向いた。少年は家族と一緒にリラックスした様子だったが、医師が病室に入ってきて、診察を始めると雰囲気が変わった。足の傷の状況を確認するために布団をめくると、手術した足の様子があらわになった。

少年は、目の前に突きつけられた現実に表情を曇らせた。少年はカメラの前では何も語らず、僕らはアメリカの空爆を非難する父親のインタビューを撮影した。アメリカの空爆はもっぱら夜間に行われ、軍事施設にとどまらず民間にも被害を及ぼしていた。父親は、夜間の空爆は市民に対する無差別爆撃と非難した。また、アフガニスタンのような国では足を失うことは死活問題だとも訴えた。

ビザ申請用紙を奪い合い

数日たったある日、クエッタに滞在していた契約のジャーナリストから電話があった。タリバン領事館がビザの発給を始めたというのだ。アフガニスタンに行けるかもしれない。僕らは、やっていた取材を切り上げ、領事館に駆けつけた。門の前にはすでに世界中のマスコミが長蛇の列を作っていた。150人はいたと思う。契約ジャーナリストは、自身とコーディネーターの分の申請用紙を持ってはるか先に並んでいた。

シャーはビザなしでパキスタンとアフガニスタンを行き来できる部族地域の出身なので申請は不要、日本人の3人分が必要だ。領事館の職員が時折、ビザの申請用紙を配りに来たが、その度に行儀が良いとは言い難い奪い合いになった。僕は何とか3枚を入手し順番を待った。先に並んでいる契約ジャーナリストに一旦は頼んだが、枚数が多すぎると突き返され、僕らは列の後方に戻った。

数時間が経過し、あと5人で門に入れるというところで、領事館職員が「打ち切り」を宣言して門を閉め始めた。数人が門に殺到し、僕は片足を門の中に入れて抵抗したが、門の外のパキスタン警察の警備担当に羽交い絞めにされ引き抜かれそうになった。その時、意外な人物が助けに来てくれた。取材車に一緒に乗り込む度に10ドル紙幣を渡していたあの警察官がどこからか現れ、警備担当の警察官との間に入ってくれたのだ。次の瞬間、僕は門の中に飛び込み、背中でガチャンと閉じる音を聞いた。

「彼はラッキーガイだ」
門の外では歓声があがっていた。先ほど打ち切りを宣言し門を閉めようとした領事館の職員は仕方ないという風に笑っていた。

戦地へ向かう

領事館の中でビザが貼られたパスポートを受け取る際に、先に中に入っていた契約のジャーナリストと出くわした。彼は自分のもの以外に複数の日本のパスポートを持っていた。もともと、彼は、別のテレビ局の仕事をしていたのだが、急遽うちで雇った人だった。彼が持っていたパスポートは元々付き合いのあったテレビ局のスタッフものだった。契約している僕らより、昔の付き合いを優先したわけだ。非常に気まずい思いをしたが、僕は東京にこの件を報告せずに、伏せておくことにした。

タリバン政権の最高指導者オマル師のスポークスマンが会見 2001年12月3日

領事館がビザを発給したのは、アフガニスタンのスピンボルダックという町で記者会見を開くためだった。一方的にアメリカの言い分だけがメディアを通じて世界中に伝えられていたので、反論をしておこうということだったようだ。タリバン側のお膳立てとは言え、まさに戦争の行われている場所にいくことになった

僕は、一緒に行くカメラマンとVEの意思を確認した。2人の答えはシンプルだった。
「ここまで来たんだ。行きましょう」
「面白そうだ。ついて行きますよ」

翌朝から、複数のメディアでコンボイ(隊列)を組んで国境を越えることになった。契約のジャーナリストに国境を越えられる車の手配を頼み、僕らのチームは長期取材のための装備品購入の手配に市場に行った。機材の充電に不可欠なYAMAHAの発電機、そして寒さをしのぐ布団を買った。食料はイスラマバードから持ってきた即席カップ麺。カロリーメイトのようなものは無かったので、ビスケット、そして水を購入した。湯沸かし器も買った。車で寝ればいいと思いテントは買わなかった。

僕は、ビザがとれたので、アフガニスタンに入るという説明を東京のデスクにした。
デスクは、すでにカブールに入っているチームのことで頭が一杯のようで、それ以上の会話は無かった。

【執筆:フジテレビ FNN プロデュース部長 森安豊一】

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