2025年11月29日(土)。一人のフットボーラーが、そのキャリアに幕を下ろした。
北海道コンサドーレ札幌のMF深井一希である。”背番号8”で埋め尽くされた大和ハウスプレミストドームのピッチを駆けた延べ59分間。後半13分、”終わりのとき”を迎えた際の、1万8612人によるスタンディングオベーションは、そのサッカー人生がいかにドラマティックなものであったかを物語っていた。
高校2年で世界を体感したU-17ワールドカップ。”黄金期”といえるアカデミー時代。29年を数えるクラブ史のハイライトとなった劇的ゴール。そして、それらの希望に立ち塞がった5度にわたる膝の手術。
深井一希は、札幌サポーターにとって最も「たられば」を想起させる選手であったはずである。しかし、度重なる試練が彼を”不屈の男”たらしめたことも、また事実。
その足跡を、現役ラストマッチの翌日に敢行した「コンサラボ」(UHB北海道文化放送)独占インタビューで発した言葉とともにたどる。
「僕はもう、ボールは蹴りたくないですね」
13年にわたる現役生活に区切りをつけた翌日、深井一希はそう言った。一生に一度しか訪れない”元プロサッカー選手”としての1日目。2023年にピッチを去った小野伸二にその実感を聞いた折、返ってきたのは「早くサッカーがしたいですね」という言葉であった。
9月の現役引退発表時にピークを迎えていた膝の痛みが、ラストマッチへ向かうにつれて良化していった一方で、キャリアを終えた後にやりたいことを問われた際には、「痛みから解き放たれた生活が楽しみ」、「膝のことを気にしない生活が楽しみ」と、そのトーンは最後まで一貫していた。どれほど”普通”を渇望していたか。そんな彼を目の前にすれば、「もうボールは蹴りたくない」という悲痛な声がこぼれてきても、頷く以外の選択肢は見当たらない。
ルーキーイヤーの2013年11月に負った左膝の前十字靭帯断裂に始まり、プロ生活の中で両膝合わせて5度の手術を経験。そのほかの部位も含めれば、人生を通じてメスを入れた回数は両指をこえる。「他人に何か影響を与えたいと思って、怪我を乗り越えてきたわけじゃないですけど」と深井は言うものの、”不屈の男”という存在の偉大さは、這い上がる度にクラブの枠を飛び越えていった。
「同じ怪我を繰り返している選手が相手にいることに、運命的なものは感じます」。4度目の手術から255日ぶりの復帰を果たした2023年のルヴァンカップGS第5節vs横浜F・マリノス(H)。前日練習で深井がそう話したのは、同じ試合で301日ぶりのカムバックを遂げることになる宮市亮のことである。
彼の苦しみの歴史もまた、サッカーファンにとっては説明不要だろう。奇跡的と言えるふたりの同時復帰は、大きな話題を呼ぶこととなった。ラストマッチの交代時、言ってしまえば所縁のない、対戦相手である愛媛FCの選手たちが花道に加わったことも、深井一希が1クラブの範疇をこえた”復活の象徴”であるという証明のひとつと言えるのかもしれない。
「僕は若い頃に2回、前十字をやったので。もし仮に、もう少し年齢がいってからだったら、ここまで現役を続けることはなかった」。最初の手術を受けたのは、中学1年。原因不明の膝の痛みによるものであった。高校2年にも疲労骨折で膝を手術。そういった過去がありながら、飛び込んだプロの世界に不安はなかったのだろうか。
-当時、ここまで現役生活を続けられると想像していました?
「自分が掲げていた目標が、凄く高いところにあったので。それがあったから、ここまで続けてこられたと思います」
「ブスケツの次は自分だと、本気で思っていました」
2008年から2012年まで世界を席巻したペップ・グアルディオラ率いるFCバルセロナ。若き深井一希もまた、”ティキ・タカ”に魅了された1人であった。彼の言う”凄く高い目標”とは、この時期、ラ・リーガ3連覇、UEFAチャンピオンズリーグ2度の優勝を誇ったカタルーニャの名門クラブのことである。
「当時は何もわからない状態でプロに入った若造で。まずは”コンサドーレを変える”ということに相当な自信を持っていましたし、すぐ違うチームに移籍して、海外に行って、バルセロナに入るという。本当にそんな気持ちでやっていましたね」
シャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタ。フットボール史に残る名選手たちで構成されるFCバルセロナの中盤において、彼の憧れの的は世界最高のアンカーと称されたセルヒオ・ブスケツであった。
のちに、画面上で目を輝かせながら見ていたイニエスタとJリーグの舞台で対戦することはもとより、まさかピッチ上のロールモデルとなり続けたセルヒオ・ブスケツが、自らと同日の2025年9月26日に引退を発表することなど、当時の彼は予想だにしていなかっただろう。
引退発表の場で、いくつかの質問の締めくくりに、この運命的な事実を告げると、「嬉しいです。僕が1番目標としていた選手なので」と笑みがこぼれた。つくづく深井一希のサッカー人生には奇跡が起こるのだと感じさせられた。
2011年のU-17ワールドカップ。当時、高校2年生の深井は、南野拓実らとともに日本代表に名を連ね、アンカーのポジションで全5試合のうち4試合に出場。準々決勝でブラジル代表に2-3の敗北を喫したものの、中田英寿・松田直樹らを擁した1993年大会以来、18年ぶりとなるベスト8に進出を果たした。遠いメキシコの地で活躍する姿に、”将来、A代表のボランチを札幌アカデミー出身選手が担う”、そんな想像をしないわけにはいかなかった。
深井本人は、あの経験を「自分が掲げていた目標や考えは、まだまだ狭かったんだな、小さいところだったんだな、と思い知らされました。スピード感を持って成長していかないと、こいつらには敵わないと、あの歳ながら感じた。一気に自分の目指すところが変わってきましたね」と振り返る。
対戦相手には、のちにパリ・サンジェルマンをCL初優勝に導くマルキーニョス(ブラジル)、マンチェスター・シティにも所属したエメリク・ラポルト(フランス)、セビージャなどで活躍したルーカス・オカンポス(アルゼンチン)らもいた。
ワールドクラスの選手たちとの対峙は、”世界基準”を決して夢ではなく、ごく近い目標として感じるきっかけとなった。「どれだけ怪我をしようと、治るかという心配より、自分が目標に向かっていくことだけ考えていました」。そう語るように、若き深井一希の眼差しは先にある輝かしい光景に向けられ、目の前にあるリハビリの日々に、それほどピントは合っていなかったのかもしれない。
「アカデミーから選手が出てきてこそコンサドーレ」
指導者の道をセカンドキャリアに選んだ深井はそう断言し、「自分たちが強かった時代に戻らなきゃいけない」と続けた。これは札幌アカデミーの黄金期を築いた1人としての発言であった。
中学3年、全日本U-15ユース選手権で準優勝。高校2年時には、創設初年度となる高円宮杯U-18プレミアリーグEASTの初代王者に。さらにアカデミーの最終学年として迎えた2012年のJユースカップは決勝でガンバ大阪ユースを5-1で破り優勝。1997年に生まれた育成組織の一つの到達点の中心に、深井一希はいた。
「自分たちの世代が中心となってやっていければ、コンサドーレは絶対にJ1で闘っていけるという自信があった。若い時から(1学年上の荒野)拓馬くんや、同世代のライバルたちと『俺たちで強くしよう』という話はしていましたね」。
2011年、プレミアリーグの東西王者が対戦するチャンピオンシップを戦った登録メンバー18人のうち実に11人が、のちにプロの門戸を叩いた。余談にはなるが、日本一の座をかけてサンフレッチェ広島F.Cユースと対戦したこの一戦の会場は、さいたまスタジアム2〇〇2。8年の時を経た2019年に、深井一希はこのスタジアムを揺らすことになる。(続く)
引退翌日に行った深井一希独占インタビューは、12月10日(水)・17日(水)放送の「コンサラボ」(UHB北海道文化放送・北海道ローカル放送)で余すところなくお届けします。