岩手県盛岡市の「みたけ」と「青山」は、昭和以降に成立した比較的新しい地名だ。
その地名の由来について探る。
「みたけ」地区は現在、県営運動公園や県営武道館など県の運動施設が多くある地域だ。
長年にわたり県内各地の地名について調査している奥州市出身の宍戸敦さんは、「みたけ」地区について次のように説明している。
宍戸敦さん
「ひらがなの『みたけ』という地名は昭和51年から始まっている。元々は練兵場があり大正天皇が軍事演習を見学されたときに、この地を観武ヶ原(みたけがはら)と名付けた。これが『みたけ』の由来と言われている」
観武ヶ原とは、かつて軍事演習などが行われた場所で、現在の月が丘・青山・みたけなど広い範囲に及んでいたと言われている。
観武ヶ原の「みたけ」は、現在の「みたけ」とは違い漢字が使われていた。
宍戸敦さん
「『みたけ』というのは、岩手山のふもと、神聖な山です。それを称して御嶽(みたけ)と言ったとは思うが、時代は戦時中で武士の「武」という字を入れて、観武ヶ原(みたけがはら)とつけたと思う」
「戦後になってから、戦時中の名残を消そうという考え方があったのかもしれない。心機一転という意味も含めて、ひらがなの『みたけ』にしたと思う」
みたけ老人福祉センターの敷地内にある「観武原碑」には、観武ヶ原と名付けられた由来が書かれている。
隣にある「観武ヶ原開拓の碑」は、この地が戦後に開拓された経緯が書かれている。
観武ヶ原と呼ばれた現在の青山・みたけ・月が丘などの地域は、戦後に農地として開拓が行われていた。しかし最終的には住宅地としての開発が進められたと伝えられている。
続いて「青山」地区は、みたけ地区の南側に隣接する地域で、かつて観武ヶ原の範囲に含まれていた。
宍戸敦さん
「観武ヶ原の中に、当時、兵隊さんが生活をしていた建物(工兵隊営舎)があった。戦後大陸から引き揚げてきた人達が住む寮となり、その住まいを『青山寮』という名称にした。この『青山寮』いうのが後に青山という地名になっていく」
「青山」地区には、観武ヶ原の時代の練兵場としての面影が多く残っている。
盛岡ふれあい覆馬場プラザは、かつて覆練兵場と呼ばれた施設で、馬に乗って戦う部隊の訓練が行われていた。
ーー盛岡ふれあい覆馬場プラザはかつてどのように使われていた?
青山地区まちづくり協議会 遠藤政幸会長
「以前は悪天候の際、この建物内で騎兵隊が馬に乗って訓練していたと聞いている。れんがや鉄骨そして屋根裏の木の部分は100年以上前のもの」
終戦後、多くの人が移り住んだ青山町。この地域に長く住む松尾洋さんは、幼少期に「青山」地区の由来となった「青山寮」に住んでいたという。
松尾洋さん
「戦争が終わって昭和21年に満州や台湾から引き揚げてきた人たちは、住むところが無かったので「青山寮」に入れてもらった。今の住宅に比べれば不便で、大人は苦労したと思うが(当時)私は子どもだったから(青山寮での生活が)楽しかった」
盛岡市「みたけ」「青山」には、開拓時代の歩みとその記憶が今もなお残っている。