硫黄島の戦いから26日で80年です。
戦死した人の遺骨を遺族のもとに返すことも大きな課題となっています。
父が硫黄島で戦死・高橋春男さん:
戦後はまだ終わってない。80年たったけど、まだ戦後が終わってないという感じは持っています。
新潟・長岡市に住む、高橋春男さん(83)。
高橋さんの父・杵渕留吉さんは、1945年3月に硫黄島で戦死しました。
第2次世界大戦の激戦地だった硫黄島では、1945年2月から3月にかけ、アメリカ軍との戦闘で日本軍約2万2000人が玉砕。
1万1000人余りの遺骨は現在も見つかっていません。
留吉さんの遺骨は2014年に発見されていました。
そして、2021年に国が行う遺骨のDNA鑑定に高橋さんが申請したことがきっかけで血縁関係を認められ、77年を経て家にようやく戻ることができました。
高橋春男さん:
こういう機会があるのに、誰も迎えに行かないのはな。そんな気持ちでね。たまげましたね、ええと思いました。本当に見つかると思っていませんからね。(遺骨を手にして)ぎっしりとした、重みちょっと感じましたけどね。うれしかったですよね。こうやって抱いてやれたし、家に連れてこられたし。
しかし、高橋さんのように硫黄島で発見された遺骨のDNA鑑定で身元が特定されたケースは、これまでに6件しかありません。
高橋春男さん:
1人でも多くの方が自分の家に帰れれば、本当にいいことだと思いますので、(DNA鑑定で)積極的にやっていただければと。
厚生労働省は、遺骨と遺族の検体を照合するDNA鑑定を無料で行っていて、1人でも多くの遺骨を遺族のもとに返すことができるように協力を呼びかけています。
「硫黄島の戦い」から80年。
激戦地として語られることの多い硫黄島ですが、7歳から8歳ごろに強制疎開させられた元島民は、戦前には豊かで穏やかな生活があったと振り返ります。
当時島で暮らしていた笹原タミ子さん:
ここで遊びたい。遊びたいですよ。(Q.こんな大きい木はありましたか?)いや~子供の頃だから、みんな大きく見えました。ガジュマルのブランコして遊んでたから私。
当時を経験した人が年々少なくなる中、島の記憶を後世に伝え続けることがこれからの課題となっています。
全国硫黄島島民3世の会の会長の西村怜馬さん。
元島民を祖父母に持つ孫世代として語るのは、硫黄島でも人の暮らしがあった現実です。
全国硫黄島島民3世の会・西村怜馬会長:
サトウキビが採れたり、レモングラスっていう香水の原料になったものが採れたり、それを収穫して子供もみんな手伝って楽しく暮らしてたんだよとか、運動会とかもすごく盛り上がってたって聞きますし。祖母は青年学校の、今でいう中学生くらいの年齢の人たちが野球の試合をやるときに運動場で応援して見てたとか。
西村さんの祖父母は、強制疎開の直前に結婚式を行ったといいます。
全国硫黄島島民3世の会・西村怜馬会長:
空襲もあった時期だったそうで、祖父の家の窓に黒い布を張って光が漏れないようにして。光が漏れると標的になっちゃうということで、それで結婚式やったんだよって。
3世の会は40人ほどで構成され、元島民から話を聞くほか、遺骨収集事業などの活動を行っています。
全国硫黄島島民3世の会・西村怜馬会長:
1世の人たちからいろんなこと聞いてきた最後の代だと思う。3世っていうのは。硫黄島が世の中から忘れられるようなことがないように活動を続けていきたい。