「意見を言いたいけれど、雰囲気に勝てず自信を持てない」
「意見を言うと、気まずくなるかもしれない」

世渡りに、悩みはつきものだ。現代人が日常生活で抱える問題や悩みに対して、哲学が答える!フランス哲学が専門の津崎良典氏(筑波大学准教授、パリ在住)にFNNパリ支局長の石井梨奈恵が聞く。生活密着型の哲学談義最終回!

第一回:【『他人は他人!』自分に自信を持つには ~マイナスの感情を乗り越える方法~】
第二回:【嫉妬心に打ち勝つには ~マイナスの感情を乗り越える方法~】

フランスでは哲学が必須科目

この記事の画像(8枚)

石井:
フランスでは、自分の意見を言わない人=「何も考えていない人」だと思われてしまいます。授業や会議などで、他人と違う意見を言うことが当たり前の社会です。しかし、それは「けんか」でなくあくまでも「討論」なので、その場が終われば、後に引きずることもなく、気まずい雰囲気にもなりません。他方、日本では、他人と違う意見を言ったり、他人と違う行動をしたりすると、その場から浮いてしまったり、その後の関係すら悪くなってしまうことがよくあります。この風潮の違いは、どこから来るのでしょうか。

津崎:
私は、フランスに最初は学生として、ついで教員として通算で10年くらい暮らしてきました。人はどうやって教育を授けられて成長していくかという観点から、日本人とフランス人の違いを観察したとき、ひとつ大きいのは、高校3年生で哲学が必修かどうか。これがすごく大きい。フランスは高校3年生で哲学が必修。理系も必修。

大学に行って勉強するには、1808年にナポレオンが作った国家試験であるバカロレアという試験に合格しなければならない。中等教育を修了したと証明するだけでなくて、それがあると自動的に大学に進学できる。大学入試の代わりになっているフランスの国家試験。日本でそれに近いものをあえて探すとなると、つい最近終わったセンター試験。

ナポレオンがバカロレアを導入して以来、哲学はずっと試験科目のひとつ。試験科目だから勉強しなければいけない。昨年その50周年の記念行事がフランスでは続いた、と同時に、それに呼応するかのようなマクロン政権への抗議活動も起きて大学などが封鎖され、50年ぶりにその再来かなどとこちらの一部報道にはあった1968年の5月革命だが、その2年後の1970年から哲学は、一週間くらい続くバカロレア試験の最初の考査科目になった。それくらい重要な位置づけを与えられるもの。

アンバリッドのナポレオン像
アンバリッドのナポレオン像

哲学を学んだ人には《意見》がある

確かに、フランス人だって議論が苦手な人、寡黙な人はいる。自分の意見を言わない人もいる。日本人だっておしゃべりな人もいるし、ずうずうしい人もたくさんいる。日本人、フランス人と一般化はできないけれども、教育の現場に日仏両方携わってみて傾向として感じることは、哲学の教育をまがりなりにも必修で受けてきた人には、やはり《意見》がある。考えているから、自分なりの意見がある。言うかどうかは別だけれども、意見がある。

なぜかというと、1年間いやいやでもそういう授業を受けると、いろいろと考えるきっかけにはなるから。「お金は人を幸福にするか」とか、「文化はどうして大事なのか」とか、そういう授業を受けると、仕方なく考えるようになってしまう。その考えが深いか浅いか、表明するかしないかは別の問題だけれども、考える習慣ができるということは大きい。

日本の教育がまったくそれをやっていないとは思わない。日本の教育も、考える習慣をつけさせる部分はある。ただ、日本では必修ではない哲学の授業の場合、特徴的なのは、論理的な思考、抽象的な思考、具体例から身を引いて、論理というのは、こうだったらこうで、こうだったらこうだ、と時間をかけて考える訓練が積めること。こういうことに特化した授業を受けて、かつその成果を試験で確認する。フランスにも、一夜漬けの人はいるし、哲学の試験をうまくやるための参考書もあって、哲学の授業が狙っているようにはいかない部分もあるけれど、授業が必修で1年あるというのは、やはり大きい。

さらに、意見を言う言わないというのは、その場の雰囲気にも大きく左右される。自分の意見を言いやすいような雰囲気かどうか。それは、議論に参加する人たちがお互いに作っていかなければいけないもので、日本人の多くの人が授業や会議などで自分の意見を言いにくいとするならば、発言しても大丈夫だという成功体験が少ないからではないか。

自分が反対意見をぶつけられるのが嫌な人は、いままで反対意見をずっと飲み込んで、誰にも言わなかったから嫌なのではないか。誰かに反対して、議論して深めたという経験が少しでもあれば、反対されたときに、また議論して深めるというふうにすればいいわけであって、自分が思った通りに物事が進まなくてイライラするというのは、議論して深めるということをしたことがない、その経験の欠如が原因かなと思う。

哲学カフェのはじまりパリ・バスティーユ広場の「カフェ・デ・ファール」
哲学カフェのはじまりパリ・バスティーユ広場の「カフェ・デ・ファール」

高校や大学までの段階で、どんな意見を言ってもいいんだという経験を少しでも積んだことがあれば、勇気が持てる。しかし、日本の場合は比較的その経験が少ないように思う。そこが日仏の大きな違いではないだろうか。1994年、マルク・ソーテという人が、哲学カフェというものを始めて、カフェで座っている人たちと哲学の議論をするということをやり始めた。その運動が日本にも入ってきた。私も筑波大学で同僚とやっている。いろんな人がくる。そうすると、やはりみんな話し出す。話したいことはいろいろあるけれど、話してはいけないという「圧力」が強くて、今まで話せなかった。

「圧力」を取り除く工夫

石井:
去年11月に、燃料税の引き上げへの抗議をきっかけに始まった「黄色いベスト」運動を鎮めるため、マクロン大統領は、各地で「大討論会」を始めました。一国の大統領に対して、市民が臆することなく、堂々と意見する場面が非常に印象的です。その場の雰囲気などの環境が変われば、これまで話せなかった人も話せるようになるということですが、具体的にはどのような方法があるのでしょうか。

フランスで続く「黄色いベスト運動」
フランスで続く「黄色いベスト運動」

津崎:
問題は、「圧力」がどこから来ているか。ということ。その圧力を取り除くようないろんな工夫をしてあげると日本人も実はすごく議論する。居酒屋の文化がそう。お酒の力を借りて、話しにくい雰囲気を溶かしていく。だから、日本人も分かっている。「話しにくいのは、場の雰囲気が悪いからだ」と。雰囲気を変える努力をすれば自分たちも話しやすくなるとうすうす気づいている人たちが、例えばお酒の力を借りてみてはどうかと思って、居酒屋で話す。だけどやはり仕事中にお酒を飲むわけにいかない。そうすると、会議や授業を主催する人が、話しやすい雰囲気を作るような訓練を自覚的に積まなければいけない。

例えば、座り方。人間は、互いに真正面に座ると話しにくい。だから、お互いが90度の角度になるように座るとか。「~先生」という役職をつけないで呼ぶとか。役職をつけると、話しにくくなる。フランスでは、同僚はファーストネームで呼びあうが、日本だと苗字の下にさらに役職をつけたりして、威圧感が強い。「津崎先生」とかね。いずれにしても、議論をする相手との関係性の作り方が違う。かなりフラットな人間関係が言葉のレベルでも作られている。日本ではそれがなかなか難しい。でも、場の雰囲気を和らげる努力をすると、実は日本人も話す。役職で上司を呼ぶのではなく、「さん」づけにすると親近感が湧いて、文字通り「話しやすくなる」。
あるいは、役職は男女平等のためにいわゆる《クオータ制》を導入するとか。男性ばかりの会議に女性単独で出席とか、その反対の会合に男性単独で出席というのは、やはり威圧感を感じやすい。フランスの場合は、一時期まではかなり男社会だった。でも、変えてきた歴史がある。

フランスのマクロン大統領
フランスのマクロン大統領

問題の原因となっているシステムを解決する

例えば、《クオータ制》とは別の事例だけれど、昨年、フランスの偉人廟パンテオンに夫の亡骸とともに入ったシモーヌ・ヴュイユという女性政治家がいる。彼女は、1974年に保健相として人工妊娠中絶の自由化法案を提出して、最終的に実現させた。彼女の法案趣旨演説はYouTubeなどで視聴できるが、「男性議員が大半をしめるこの議会で、女性としての確かな思いをひとつ共有したい、つまり、自分から進んで、喜んで妊娠中絶をする女性なんてひとりもいない」……それでもそうせざるを得ない状況におかれた女性たちを法的に保護しなければならない、と訴える彼女の姿が映し出されている。その後、もの凄いバッシングにあうが、冷静に《議論》をして、女性の地位向上の政策を訴える。そういう歴史がフランスにもある。

そういうふうに、意識的に変えられることはたくさんある。それをやるかやらないかが大きな違い。なかなか話しにくいというのは、日本人がシャイだからということ以上に、議論したり、自分の意見を言ったりということを小さいころからやったことがない、というところに原因のひとつがあるのではないか。やってみれば、話すようになる。

石井:
日本では、会議などの終わりの、「何か質問はありますか?」という問いかけに対して質問がないままで終わる様子を度々見かけます。文化や教育の違いによって「議論の雰囲気」は全く変わってくるということが分かりました。しかしながら、意図的な工夫次第で、活発な議論を行える可能性が生まれる、ということですね。

津崎:
一般論として、幼少期から青年期にかけて外国で教育を受けた「日本人」は、日本では自分の主張が強すぎるといわれることがある。逆に言えば、日本で「日本人」として生まれても、自分の意見を言ってもいいんだという成功体験を海外で積むと変われる、ということ。たとえ「日本人」でも話すようになる。何か、日本の社会にある独特の場の作り方が、寡黙で、自分の意見を飲み込んでしまう「日本人」というものを作り出しているのであって、同じ日本に生まれた人も、別の雰囲気が支配する場に行けば、別の人間に変われる。だったら、違うやり方を別のところで試してみるのもひとつのやり方。もし本当にそうしたいのだったら。だから、いま自分がいる組織が威圧的で嫌だったら、そこをいったん出るといい。

そこで問題になるのは、前回の話とも関わってくるけれど、そこを去っていった人を妬んではダメ、ということ。足を引っ張ってはダメ。なぜか。どうしてその人はこの場を去っていったかというと、自分の意見がきちんと取り扱われないようなシステムがまかり通っている組織のシステムが嫌だったから出ていったわけであって、その人を攻撃するのではなくて、攻撃するならそのシステムの方を攻撃しなさい、ということ。
「いいな、あの人、外国なんか行って好きなように生きて」と、その人を妬むのではなくて、なぜその人は日本を出ていったのか、その組織のあり方のほうを問題視しろというのが、デカルトの嫉妬心の考え方を援用してみていえることではないか。

議論する習慣を身につける教育

今回も含めて3回にわたっていろいろと話してきたけれど、まとめると、フランス人も日本人も同じ《人間》だから、そう大きく違わないと私は考えてはいる。それでも違いがあるとしたら、その原因のひとつは、今回の話に限って言えば、教育のあり方ではないか。哲学の教育が必修かそうじゃないか。その授業のなかで考える訓練を1年間させられる人は、そうする習慣が身についていくのではないか。言うか言わないかは別にして、自分の《意見》を自然と持つようになるのではないか。

私の話は、あくまで比較だから、フランス人は全員考える習慣を身につけていて、日本人にはそのような人はいない、なんていう極端な話では全然ない。私が言いたいのは、日本に生まれようがフランスに生まれようが、一度は《哲学》を経験してみるのも悪くないのではないか、そしてそのうえで、自由闊達な《議論》のための場を作っていければいいな、ということ。

津崎良典先生(左)と筆者
津崎良典先生(左)と筆者

【執筆:FNNパリ支局長 石井梨奈恵】

津崎良典氏プロフィール
1977年生まれ。2000年、国際基督教大学(ICU)教養学部を卒業。2010年にパリ第一大学パンテオン=ソルボンヌ校にて博士号を取得。2015年より筑波大学人文社会系准教授。2018年、哲学にまったく馴染みのない読者を対象にデカルトの思想を分かりやすく解説した『デカルトの憂鬱——マイナスの感情を確実に乗り越える方法』を扶桑社より上梓。同年4月から一年間の予定でパリ第一大学パンテオン=ソルボンヌ校にて在外研究中。2019年2月より、イマジニア株式会社が運営する「10MTVオピニオン」においてデカルトに関する一般向けの解説動画がインターネットで連続配信(4月まで毎週、新規動画を配信中)。『デカルト全書簡集』(知泉書館)や『ライプニッツ著作集』(工作舎)の共訳者でもある。

石井梨奈恵
石井梨奈恵

元パリ支局長。2021年より、FNNプライムオンライン担当。これまで、政治部記者、 経済部記者、番組ディレクターなどを経験