東京大空襲から80年。
10日に式典も行われましたが、80年が経過して直面している課題もあります。
高齢化が進む中、戦争の記憶をどうやって次世代に伝えていけばいいのか考えなければなりません。
「イット!」では大空襲を乗り越えて人々の思いをつないできた下町の銭湯を取材しました。
のれんを通り過ぎると見えるのは、広々とした脱衣所。
目の前には、迫力のある富士山のペンキ絵が現れます。
約47度の熱湯が自慢の東京の下町、荒川区にある帝国湯。
歴史を感じる番台が特徴的です。
帝国湯の創業は1916年。
第2次世界大戦が起こる前から、変わらずこの下町で営業を続けています。
大量の焼夷(しょうい)弾により、ひと晩で約10万人が犠牲となった東京大空襲から10日で80年。
場所を変えずに営業を続ける帝国湯は、東京大空襲の後に一度火事で焼失。
しかし、終戦から10年たった1955年に再建を果たし、営業を再開。
今もなお多くの人に愛され続けています。
常連客:
東京でいちばんの銭湯。
この帝国湯を守り続けるのはオーナーの甚五さん、裏方をまとめる番頭の石田さんの2家族。
帝国湯の施設内には、今も戦争の傷跡がくっきりと残されています。
番頭・石田綾子さん:
根っこの方見ると分かるんですけど、穴が空いているんですけど、そのところに焼夷弾が落ちて。
他にも、男湯の横にあるレンガは戦時中からの姿そのまま。
まさに下町への大空襲を乗り越えたものです。
オーナーには先代から、空襲当時、過酷な環境でもお客さんのために営業を続けていたと語り継がれていました。
オーナー・甚五さんの母:
大空襲があって、本当に焼け野原ですよね。燃やすものが何しろないから、ごみ集めとか地下足袋というのがあって、そういうのを燃やしてその場をしのいだ。特にここは下町、ほとんど(お風呂が)ない家庭が多かった。皆さんには本当に喜ばれたと。
オーナー・甚五與司直さん:
屋根が全部なくなった時があるんです、空襲で。そのとき亡くなった先代のおばさんが「月がきれいでいいでしょ」と言われた。
大空襲の直下にあった帝国湯。
目の前に住む酒店の主人は、東京大空襲に見舞われた当時を鮮明に覚えていました。
東京大空襲を経験した帝国湯前の酒店店主(85):
空襲で燃えちゃって、裏もこの辺も全部。この辺りに20~30名入れる 防空壕(ごう)があった。なんで強烈に覚えてるかというと (外に出て)おやじに怒鳴られたんで。
下町を襲った大空襲。
戦火を乗り越えた帝国湯について、近隣の住民は、戦後の人々の交流の場になっていたといいます。
近隣住民:
(昭和30年代は)子どもなんか外で遊んで、そのまま夕食前にお風呂屋に。そういうところでの会話が楽しみでもある。
戦後も変わらず、多くの人を癒やし、下町の中心になっていた帝国湯。
今も変わらず、毎日まきを割り、熱いお湯を提供し続けています。
常連客からは「奥もまきでやってますからね、そこも魅力ですよね。東京の銭湯の最後のとりでだと思っている」「ものすごく熱いお湯で、入ると疲れが一気に抜けて、健康な生活を維持する上でもここに来ないと落ち着かない。ずっと続いていってほしい」といった声が聞かれました。
大空襲の後、建物が一度焼失し、その後、復興を遂げた帝国湯。
その力の源泉には、“お客さんのために銭湯を続けたい”という戦後の強い思いがありました。
オーナー・甚五さんの母:
戦争当時は本当に何もない時代。お風呂に入りたい皆さんの意思・望み、それだけはなんとかしなきゃという当時の気持ちで。
そして、その思いは今も受け継がれています。
番頭・石田綾子さんの兄 石田和男さん:
お風呂っていうのは癒やしの場であって、ゆっくりしてもらって、あしたの仕事の英気を養ってもらう場所。
番頭・石田綾子さん:
常連としてきてくれるお客さまがいる限り、開けなきゃという使命感が強くなる。