持病の悪化による辞意表明以降、7年8カ月に及ぶ安倍政権のレガシー、政治的業績について様々な議論がなされている。国内の一部メディアからは厳しい評価が出ているが、韓国・ソウル在住の筆者から見ると、外交面で大きな業績を残したとのイメージが強い。

会見で辞意表明をする安倍首相(8月28日)
会見で辞意表明をする安倍首相(8月28日)
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特に安倍首相が提唱した「自由で開かれたインド太平洋戦略」は大きなインパクトを国際政治に及ぼした。そして韓国政府はこの戦略により「板挟み」となり、苦しんでいる。韓国社会は安倍首相を「悪魔のように(※8月28日韓国紙フィナンシャルニュースより)」嫌っていたが、首相辞任後もこのレガシーにより苦しめられる事になった。

安倍首相のTwitterに寄せられたメッセージをよく見ると…

安倍首相のTwitterにはインドのモディ首相など世界中の首脳や国際機関のトップから惜別のメッセージが寄せられた
安倍首相のTwitterにはインドのモディ首相など世界中の首脳や国際機関のトップから惜別のメッセージが寄せられた

安倍首相のTwitterを覗いてみると、様々な言語でメッセージが飛び交っていた。各国・地域や国際機関トップから安倍首相への惜別のメッセージだ。アメリカ、インド、オーストラリア、台湾、イギリス、カナダ、インドネシア、UAE、EU、シンガポール、スリランカ、パキスタン、モルディブ、ネパール、カタール、イスラエル、ポーランド、オーストリア、ルクセンブルク、スペイン、オランダ、ギリシャ、コロンビア、ブラジル、コソボ、WHO、OECD、IEA、パラオと、29の国と地域、国際機関から寄せられていた(9月7日正午現在)。

またアメリカ、ロシア、カナダ、ヨルダン、イギリスの首脳、国連事務総長とは電話でお別れの挨拶を交わした。

この状況を日本人の視点で評価する場合「高い外交力を発揮した証左」と見るのか「単に任期が長かったから多くのメッセージが来た」と見るのかは、意見が割れるかもしれない。ただ韓国には全く別の視点がある。韓国の経済紙「毎日経済」は「文大統領と安倍、最後まで冷ややか。別れの挨拶もなし」と報じた。

確かに、上記のメッセージを交わした国々の中に「韓国」は含まれていない。韓国大統領府は8月28日に「永らく韓日両国関係発展のために多くの役割を果たしてきた安倍首相の急な辞任発表を残念に思います。安倍首相の早い回復を祈ります」とのメッセージを発表した。

保守系大手紙の中央日報は「大統領府のスタッフは悪化している日韓関係を踏まえて安倍首相辞意表明に際して大統領府はコメントを出さないとの方針を固めたが、文在寅大統領が覆した」と報じた。手を差し伸べたのは文大統領だと言いたいのかもしれないが「文大統領、中国の習近平国家主席と(安倍首相が)挨拶を交わしたという便りはまだない」と、「恨み言」のような表現で、安倍首相との間にTwitterや電話で挨拶が交わされなかった事に注目している。

文大統領もTwitterを活用しているが、個別のメッセージを送っていないという事実は今の日韓関係を象徴しているだろう。

安倍首相の任期中、日韓関係はかつてないほどに悪化した。そして韓国内では「極右の安倍政権のせいで日韓関係が悪化した」と認識している人が多い。だが、最大の懸案であるいわゆる徴用工を巡る問題は韓国最高裁の判決に端を発したものであり、慰安婦問題も「最終的かつ不可逆的に解決」することを約束した2015年の日韓合意を韓国政府が一方的に無効化した事が原因だ。いずれも韓国発である。

むしろ慰安婦に関する合意は、日本国内の保守派からの批判を受けながらも安倍首相が決断したもので、安倍首相は韓国との関係改善のために国内的なリスクを取ったと言える。

ある日韓関係筋は、「韓国には『すべて日本が悪い』『日本が妥協するべき』というある種の「甘え」があり、日本側も「仕方がないな」と応じてきた歴史がある。しかし安倍政権はそうした「甘え」を許さなくなった。背景には2012年の李明博大統領による島根県の竹島上陸と、天皇陛下への謝罪要求発言に端を発した、日本の対韓世論の悪化がある」と話す。

日韓の問題は現在進行形ではあるが、「甘え」が本当にあるなら、とても正常な二国間関係とは言えないだろう。韓国に対して「もはや甘えは通用しない」という毅然とした態度を示したことは、安倍政権のレガシーの一つと言えるかもしれない。

アメリカも採用したインド太平洋戦略で韓国の米中「板挟み」が深刻化

もう一つ日韓関係を見ていく中で大きな影響を及ぼしている安倍政権のレガシーが、前述の「自由で開かれたインド太平洋戦略」だ。そもそもこの概念は、第一次安倍政権が打ち出した「太平洋とインド洋という2つの大海を自由の海、繁栄の海とする」構想から始まり、第二次安倍政権の外交戦略として明確化した。

端的に言えばこの海域を「力や威圧と無縁で、自由と、法の支配、市場経済を重んじる場として育て、豊かにする(※2016年8月の第6回アフリカ開発会議における安倍首相の演説より)」というもので、中国の一帯一路構想や南シナ海への拡張政策に対抗する「対中封じ込め策」だ。

アメリカのトランプ大統領は2017年8月、ベトナムで開催されたAPECで演説し、自由で開かれたインド太平洋戦略がアメリカの新たなアジア戦略になったと明確に示した。日本が提唱した外交戦略をアメリカが正面から採用するのは前代未聞の事だ。国際社会における日本の発言力やリーダーシップを大いに高める実績であり、まごう事なきレガシーだろう。米中の対立が一層深まる現在において、この戦略の重要性は増すばかりだ。

トランプ大統領との信頼関係を強固にしリーダーシップを高めたのもレガシーの一つ
トランプ大統領との信頼関係を強固にしリーダーシップを高めたのもレガシーの一つ

アメリカのビーガン国務副長官は8月31日、インド太平洋戦略の主要4カ国(クアッド/Quad)であるアメリカ、日本、オーストラリア、インドの枠組みを、NATO・北大西洋条約機構のような公式な国際機構にする構想を明らかにした。この発言は韓国で大きく報じられた。なぜなら、主要4カ国の「クアッド」を「クアッドプラス」の7カ国に拡大する構想も存在し、その追加メンバーが韓国、ベトナム、ニュージーランドだからだ。

韓国は地政学的にも参加する要件を満たしており、アメリカと軍事同盟を結んでいる以上、参加は当然の事のように見えるが、実情は簡単ではない。韓国は最大の貿易相手国である中国に経済的に大きく依存している上、文在寅政権の最重要課題である「北朝鮮との融和」実現のためには中国の協力が不可欠なのだ。つまり、中国の機嫌を損ねる事は出来ない。

中央日報は「中国を潜在的敵国とする地域安保機構(クアッド)の議論自体が不都合なものになるしかない」と、苦しい立場を表現している。韓国外務省も「クアッドプラスについて、公式にアメリカ側から参加の提案や要請をされたことはない」と距離を置いている。

安倍首相が生みの親である「自由で開かれたインド太平洋戦略」が深化すればするほど、韓国は米中の板挟みに苦しむ事になるのだ。

業績の評価は難しいが…

安倍政権のレガシーをめぐる議論を見ていて思い出したのが、2020年7月に亡くなった韓国の英雄・白善燁(ペク・ソニョプ)将軍を巡る韓国での騒動だ。白将軍は1950年に始まった朝鮮戦争で、敗北寸前まで追い込まれた韓国を救った救国の英雄だ。韓国の保守派はもちろん、米軍や自衛隊にも白将軍を尊敬する人は多い。

しかし日本統治時代に満州国軍に参加していた経歴があり、韓国では「親日派」に指定されているという側面もある。

白将軍の亡骸は国家の功労者や朝鮮戦争の戦死者が眠る国立墓地に埋葬されたが、死の直前まで左派の与党からは「親日派を国立墓地に埋葬すべきでない」との声があがっていた。大統領府は死に際してコメントすら出さなかった。与党からは国立墓地に埋葬された「親日派」の墓を暴く法律を制定する動きまで出ている。

国家存亡の危機を救ったという巨大な業績と、日本統治時代の軍歴をどう評価するのかという問題に、「親日」をめぐる左右のイデオロギー闘争が絡んだため、極端な評価がなされたのだ。

2020年7月に亡くなった韓国陸軍の元大将、白善燁(ペク・ソニョプ)氏
2020年7月に亡くなった韓国陸軍の元大将、白善燁(ペク・ソニョプ)氏

安倍首相の業績についても、反安倍の人たちは「モリカケ問題」など批判の多い点にばかり集中するきらいがあり、親安倍の人たちから見れば、外交安保政策で新たな地平を切り開いた事など、評価の高い点だけをクローズアップする傾向がある。自分たちの都合の良い部分だけを切りだして論じるようでは、救国の英雄の死に際し「親日派の墓暴き」を目指す韓国与党と本質的には変わらないだろう。

(関連記事:「朝鮮戦争の英雄」まで“墓暴き”? 韓国で止まらぬ親日狩り

7年8カ月に渡る長期政権を総括するには多角的でフラットな視点が必要になる。「韓国在住の日本人から見た安倍政権のレガシー」というこの記事の視点もその一助になればと思う。

【執筆:FNNソウル支局長 渡邊康弘】

渡邊康弘
渡邊康弘

FNNプライムオンライン編集長
1977年山形県生まれ。東京大学法学部卒業後、2000年フジテレビ入社。「とくダネ!」ディレクター等を経て、2006年報道局社会部記者。 警視庁・厚労省・宮内庁・司法・国交省を担当し、2017年よりソウル支局長。2021年10月から経済部記者として経産省・内閣府・デスクを担当。2023年7月からFNNプライムオンライン編集長。肩肘張らずに日常のギモンに優しく答え、誰かと共有したくなるオモシロ情報も転がっている。そんなニュースサイトを目指します。