17日、阪神淡路大震災の発生から30年の節目を迎えました。甚大な被害の一方、多くの人々が支援に駆けつけたことから、1995年は「ボランティア元年」とも呼ばれています。大震災を切っ掛けに、30年に渡って災害ボランティアとして活動してきた男性の思いを取材しました。

石川県輪島市。「朝市」の焼け跡で手を合わせる吉村誠司さん(59)。長野県信濃町在住で、災害救援NGO「ヒューマンシールド神戸」の代表です。

近くに忘れられない場所があります。

災害救援NGO代表・吉村誠司さん:
「72時間の壁、それでずっと作業してたんですよね。3人の方、引っ張り出したんですけど…」

倒壊した建物から高齢の女性を救出しましたが、間に合いませんでした。


吉村さんは2024年1月の地震発生直後から能登に入り、主に重機によるボランティア活動を続けています。これまでにも東日本大震災、熊本地震、千曲川の堤防が決壊した台風災害など、あらゆる被災地に入って活動してきました。

そのスタートは30年前にさかのぼります。

吉村誠司さん:
「やはり1.17、1月17日に30年を迎える阪神淡路大震災。がれきの中に人がいるという状況も、どこかにいるかも分からない、助けられるノウハウもない。それが最初でしたね」


1995年1月17日に発生した阪神大震災。甚大な被害が広がり6000人以上もの命が失われました。当時、東京で市議会議員をしていた吉村さんは、発生4日後に神戸に駆けつけ、救助や炊き出しに当たりました。その経験が吉村さんの人生を大きく変えます。

吉村誠司さん:
「隣の家もどんどん早く解体したいということだったので、『大切なものを出したいから止めてください』というと、(解体)業者とけんかになる。被災者の方が止めてほしいと泣きながら訴えてるところに、ボランティアが入って、大切な写真や貴重品を探し出すのが、どれだけ大切か、阪神淡路で痛く感じた。自分たちも重機で手助けできれば、どれだけ助かるだろうと当時から思っていた」

吉村さんはその後も生活再建を支援するボランティア団体で活動。2003年に信濃町に移住してからも森林整備やガイドの仕事をする一方、ボランティア活動を続け、東日本大震災の際にNGOを立ち上げました。


重機を操り、がれきや土砂の中から大切なものを探し出す。それは神戸以来のこだわりのようにも映ります。熊本地震でも重機で倒れかかった家を支えて…。


ボランティア:
「出たよ!」

見つかったのは依頼した住民の母親が大切していた三味線でした。

住民の女性:
「(三味線は)どうもなってない。これだけ出してもらえたから、ありがたく思います」

2024年9月の豪雨災害の能登でも、埋まってしまった車を動かせるように周囲の土砂を撤去。

依頼した女性:
「嬉しくなる感じですよね。元気をいただけてすごく嬉しいです」

吉村誠司さん:
「おおー!やった」

奇跡的にエンジンもかかりました。

13日、吉村さんは石川県珠洲市へ。訪れたのは珠洲焼の作家、渡辺キャロラインさんの自宅です。地震で工房の窯が壊れ、制作活動は休止中。近くの用水路も地震で被災し、9月の大雨の際に氾濫して、住宅下がえぐられてしまいました。


吉村誠司さん:
「ここが落ちないように。下が緩むたびに締めているんですよ」

住宅は公費解体する予定ですが、家財を運び出すまでの応急処置として、吉村さんが家を支えるジャッキベースを設置しました。

この日は今後の打ち合せ。一緒に訪れたのは吉村さんの知り合いの坪井智さん。神戸市にある中高一貫校の教諭です。家財の運び出しなどで、春休み中の生徒がボランティア活動ができないか打診に来ました。

坪井智さん:
「この時期だと、学生たちとどんな作業があるんだろう」

渡辺キャロラインさん:
「気温次第だけど、やることいっぱいある」


坪井さんは30年前の「被災者」。震災で住んでいたマンションの家具が倒れるなどの
被害がありました。吉村さんと知り合ったのは被災後のイベントです。当時、吉村さんのような多くのボランティアが駆け付けてくれたことに、恩返しの気持ちが募ったと言います。

坪井智さん:
「もう本当にエネルギーをもらって、今度は、それこそよく神戸の人は言うんですけど、お返ししなきゃいかんし。できてるかどうかわからないですけど、そういう気持ちが一番大きいかなと思いますね」


現在、吉村さんの支援を受ける渡辺さんは…。

渡辺キャロラインさん:
「吉村さんにおんぶにだっこ。もう全部何でも直してくれたり。もう本当にスーパーヒーローとしか言いようがない」

吉村誠司さん:
「30年たったから、ようやくこんな感じになった。ほんと神戸、おれは4日目に入ったんだけど遅かったなと思ったし。やっぱあの時の匂い、今回の輪島の匂いと同じ。あの焼けた匂いと…」「原点だよね。神戸がなかったら、キャロさんの所も回ってないかもしれない」

阪神大震災のあった1995年は日本の「ボランティア元年」とも呼ばれています。以降、災害があれば全国からボランティアが集まるようになり、ボランティアセンターなど、受け入れの態勢も徐々に整備されてきました。

しかし、能登では1年経った今も、倒壊した建物の多くが手つかずのまま。ボランティア活動が続いていますが、宿泊事情・道路事情の悪さから人手が不足していると指摘されています。

吉村さんは改めて被災地に思いを寄せて、できることを見つけてほしいと訴えています。

吉村誠司さん:
「今、ボランティアセンターが輪島や珠洲、能登とかでも開き始めているので、自分たちで今、何が求められているのかっていうのを、フェイスブックとかで発信してるので、それを見ながらこっちに足を延ばしていただきたい」「興味を持ち続けること、風化との戦いでもあるので、しっかり心のスイッチを切らずに続けてくれればいいのかなと思います」


祈りに包まれた17日の神戸。吉村さんも前夜のうちに信濃町を出て、「原点」の地で黙とうを捧げました。

思いを新たに再び能登で活動します。

長野放送
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