北朝鮮から逃げてきた、日本語を喋る男

韓国ソウルの住宅街にある古びた構えのスナック。

初めて入った店のカウンターに、僕は男と並んで座っていた。 男には名前がない。いや、出生時に名付けられたモノならある。だが、その名前で社会生活を送れない以上、名前に意味はない。だから男には名前がない。

スナックには笑う事を忘れてしまったのか、不機嫌顔の韓国人中年ママが独り。他に客はいない。僕はソジュ(韓国焼酎)を注文し、男はママが淹れたインスタントコーヒーに砂糖をたっぷりと入れて飲む。男は酒が飲めない。男と会うのはその日が初めてだった。

「北朝鮮から逃げてきた日本語を喋る人物がいる」

情報を入手し、人脈を駆使して辿り着いたのがその男だった。男は脱北者だ。日本語を喋るのは、男が在日コリアンとして14歳まで日本で育ったからだった。苦難を乗り越えて韓国にやってきたばかりで、その瞳は猜疑の光に充ちていた。口も重かった。

しかし、日本での少年時代の思い出話に水を向けると表情が緩んだ。
サンダーバードのプラモデルに憧れた幼い頃。
女子に大人気だったフィンガー5の晃(アキラ)に嫉妬した小学生時代。
QUEENのボヘミアン・ラプソディのレコードを擦り切れるほど聴き、歌詞の意味もわからず♪Mama~♪と歌っていた中学生の頃。

話しているうちに、互いに同じ時代を生きたことがわかり、昭和38年生まれの同学年と判明した。
「同じウサギ年じゃないですか。友達になりましょう。」 
打ち解けてくれた。朝鮮半島では干支は重要だ。

そして、男は自分の人生を語り始めた。

「ユートピアが待っている」信じて向かった北朝鮮

生まれは関西のベッドタウン。朝鮮学校に通い、少年時代は映画「パッチギ!」(沢尻エリカ出演)の世界を生きた。14歳の時、祖父に連れられ“祖国”北朝鮮に渡った。最終的には9万人以上を運ぶことになる帰還事業が続く中のことだった。

「自分たちをユートピアが待っている。」
 万景峰(マンギョンボウ)号は、そう信じる人々の夢で溢れた。切符が片道だけであっても構いはしなかった。

1988年 万景峰号 新潟の港にて

清津(チョンジン)港に到着した時には雨が降っていた。
港には、傘もささず、ぼろを着た群衆の姿があった。
まるで物乞いのようだった。
14歳の少年は、“祖国”到着直後にして夢から醒めた。

日本からの帰還者は英雄視されると聞いていた。
しかし実際は「帰国ガキ」とバカにされた。
同じ帰還者らと寄り添うように生きるしかなかった。
それなりの職を得て何とか生活はできた。
目標も立て、一時は小説家を目指した。
書く小説はどれも在日コリアンがテーマで、自らのアイデンティティーを見つめ直すものだった。

そうして30年以上もの時が流れた。

何度も試みた“祖国”からの脱却

しかし、“祖国”では心が満たされることはなかった。
脱北を試みた。
一度失敗し収容所送りとなった。

北朝鮮の強制収容所

賄賂を使って抜け出し、再度脱北を試み、ようやく成功した。
2009年の冬だった。

豆満江

中国との国境超えは豆満江(トマンガン)を素足で渡った。
豆満江は朝鮮民族、とりわけ北朝鮮指導部が聖地と仰ぐ白頭山(ペクトゥサン)を源流とする。
その雪解け水は、ナイフのように肌を刺した。

豆満江には雪解け水が流れ込む

中国では現地の住民になりすまし移動を重ね、ミャンマー~ラオス~~カンボジアを経てタイ領内の入国管理局に出頭。入管の収容施設の白壁は、隙間のないほどにハングルの落書きで埋め尽くされていた。同じルートで脱北を図った先人たちが、思いを吐き出した跡だった。

タイのメコン川を渡って脱北を試みた人々

亡命先は日本のはずだった。が、身元を引き受けてくれる肉親はおらず、止む無く、韓国への亡命を申請、バンコクの韓国大使館に送致され、韓国旅券を手にして再び朝鮮半島の土を踏むことになった。

脱北者は命がけで各地で脱北を試みた(写真は北京の日本人学校に多数の脱北者が逃げ込む瞬間)

「在日コリアン・帰国ガキ・脱北者・元在日の韓国在住者・・・ずっとディアスポラな人生です」
男は長い間使うことのなかった日本語を精一杯駆使し、自嘲気味に人生を一気に振り返った。

歌に込める想い

スナックの看板にはハングルで「音楽リクエストフリー」と書かれていた。それが理由で選んだ店だった。が、店には音楽を再生する機器らしいものはなかった。「音楽は?」と聞けば、ママは気だるそうにカウンター隅のラップトップPCを指差した。リクエストに応じYouTubeを再生するのだという。著作権の意識など毛頭ないようだ。

男が14歳までの記憶の中から曲を探す。
リクエストした曲はカーペンターズのYesterday Once Moreだった。
♪輝いていた昨日をonce more…♪ once more、もう一度繰り返すには、男にとって、
織り成してきた「昨日」は重過ぎ、薄暗かった。

しばらく音楽に浸っていると、曲は同じカーペンターズのSuperstarに変わる。YouTubeのプレイリストにあがってきた推奨曲をママが適当にクリックしたのだろう。

♪Long ago,and oh,so far away.…♪
男の人生の物語が一区切りついた間合いを、哀愁を帯びたメロディーが埋める。
男が冷めたコーヒーを飲み干し、タバコを一箱吸い終えると、二人で店を出た。
店を出るときには、ビートルズのTHE LONG AND WINDING ROADが流れていた。
「長くて曲がりくねった道ですか... 」
男は自虐の笑みを浮かべた。

店を出ると、夜空には白い綿が舞っていた。

桜の季節が終わる頃、中国大陸や朝鮮半島には、柳の種子が綿のように舞う。ヒラヒラと、音も無く。柳絮(リュウジョ)という名で、春の雪とも呼ばれている。その柔らかなリュウジョの綿が180センチの痩身の男の肩にやさしく舞い降りた。

男の凄絶なる生命力と突破力

ソウル駐在の任期を終え帰国してからも男との交友は続いた。僕は男を北朝鮮情勢に通じる“扉”として、男は僕を資本主義社会に適応するための“扉”として互いに頼った。

出会いから9年近くになる。男は脱北当初は韓国政府の啓蒙講演に招かれ、北朝鮮の実情について語ることでギャラをもらい細々と生活していた。が、脱北者の“賞味期限”は3年程度と言われる。彼らの持つ情報が更新されないからだ。

講演回数が減ると、男は今度は韓国メディアに露出し始めた。南北朝鮮いずれの住人でもない在日コリアンという視点からの半島分析は、独特で新鮮だと評判になった。メディアに登場する際は芸名を使った。

日本時代の“本名”や韓国旅券上の名前は使えない事情があった。金柱聖(キム・ジュソン)と名乗った。レギュラー番組まで持つようになった。男はテレビ出演による知名度を生かして、脱北者のリーダー格となり、脱北者によるオーケストラコンサートなど文化事業も手がけた。

最近では脱北美女たちをタレントに仕立て上げ、韓国や日本でテレビ出演させている。彼女らを伴ってフジテレビの番組にもスタジオ出演した。

フジテレビの番組に出演した脱北美女たち

さらに自らの生涯を書籍化し、日本でも出版した。また、最近では韓国政界から出馬の打診もあるという。3万人以上の脱北者は重要な組織票になるのだ。

プライベートでは、同じ時期に脱北した女性とパートナー関係となり、共に生活を踏み出した。その生命力、突破力は目を見張るものがあった。

日本で出版された『跳べない蛙』の著者

男にとっては「昭和で止まったままの日本」

男とは今でも年に数度会う機会がある。
会えば必ずカラオケに行く。
男は唄が上手い。
白いブランコ、神田川、22才の別れ、「いちご白書」をもう一度。
フォークソングの名曲から、テレサ・テンのつぐない、吉幾三の雪國といった歌謡曲、演歌。

平成の日本を全く知らない男は、自分の中では昭和で止まったままの日本を唄い描く。
男のソフトなバリトンで唄われると、どの曲にも不思議と男の人生が宿る。
そして、カラオケの最後に必ず唄う曲がある。
さだまさしの案山子だ。
牧歌的なメロディーが郷愁を誘う曲だ。
北朝鮮に渡った後、日本から送ってもらった音楽テープに入っていた曲で、帰還者仲間とよく唄っていたという。

♪元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか寂しかないか お金はあるか♪

帰還者にとって、その歌詞はまた特別な意味を持つ。
歌はこう繰り返す。♪今度いつ帰る 今度いつ帰る♪と。
“祖国”への帰還を果たしながらも、生まれ育った“故郷ニッポン”が恋しい。
その故郷へ二度と帰ることのできない絶望を唄に込める。
常に飄々とし感情を表に出さない男であるが、この歌のサビの部分では毎回決まって大粒の涙を流す。

♪手紙が無理なら電話でもいい “金頼む”の一言でも良い♪

遥々と通信所に通い、コレクトコールで日本に国際電話をかけ続け、仕送りしてくれと親戚を拝み倒し、何とか食いつないでいた日々。
物乞い同然だった惨めな記憶が蘇る。
涙の理由が、悔し涙なのか、後悔なのか、郷愁なのか、それとも自分の境遇への恨みなのか・・・

男にしかわかりようがない。

4月になると朝鮮半島にリュウジョが舞う。
長い冬が終わり、“北”の大地にも春が訪れる。

【執筆:フジテレビ 報道局 デジタル戦略担当局長 兼 取材センター室長  矢野修至】
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