食の雑誌「dancyu」の元編集長/発行人・植野広生さんが求め続ける、ずっと食べ続けたい“日本一ふつうで美味しい”レシピ。

植野さんが紹介するのは「タワーかた焼きそば」。

川崎にある町中華「大陸」を訪れ、多い日は1日約20食も注文が入る名物のスタミナ飯。ラードでパリっと香ばしく揚げた中華麺を、高さ15cm以上まで積み上げる方法も伝授する。

いろいろな要素が詰まった川崎にある町中華

「太陸」があるのは、神奈川県・川崎。

「川崎はもともろ、東海道五十三次の2番目の宿場町として発展したんですけど、川崎から鶴見にかけては“沖縄タウン”や“コリアンタウン”があったり。

『チネチッタ』という映画を中心としたイタリア街みたいなところもある。競馬場も競輪場もあるし、いろいろな要素が詰まっています」と植野さん。

植野さんは「この仲見世通りだけで150店舗以上の店が連なっています。昼も夜のお店もあって、24時間動いています」と話し、店へ向かった。

家族3人で切り盛りする店

川崎駅から徒歩8分。赤を基調にした外観が目を引く「太陸」。

漢字が「大」ではなく「太い」になっているのは、「お店が太くしっかり根を張っていくように!」という先代の想いから。ショーケースのサンプルも昭和レトロを感じさせる。

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町中華として開店したのは1961年(昭和36年)。

店自慢の餃子作りに勤しむのは、3代目店主の中西孝幸さん。お昼時は妻の一恵さんが調理を担当し、パワフルに鍋を振る。

そして、半年前から長女の萌恵さんが店に入り、2人をサポート。家族3人で切り盛りするアットホームなお店だ。

元プロゴルファーの妻に一目惚れした元鉄鋼会社の店主

「太陸」は、妻・一恵さんの実家で、その原点は、一恵さんの祖父が戦前に始めた自転車店だった。 

しかし、一恵さんの父で2代目の庸義さんが「もう自転車店は儲からん、飲食店にするぞ!」と、時代の流れを読み、63年前に業種替え。

土地柄、麻雀店への出前が多いという理由で、町中華にしたのだという。

植野さんが「中西さんはいつから?」と尋ねると、中西さんは「自分は21年前からなんですけど。その前はサラリーマンをしていました。飲食じゃなくて鉄鋼会社にいました」と答えた。

さらに植野さんが「一恵さんはいつから?」と尋ねると、一恵さんは「高校卒業後、プロゴルファーを目指したくてここを出ました」と明かす。

最高飛距離は260ヤード、ベストスコアは69をマークしたこともある一恵さん。

しかし、そこは厳しいプロの世界でもあり、限界を感じ3年目で挫折し、実家に戻り店を手伝うことにした。

それが中西さんとの運命の出会いになる。

その時の出会いを一恵さんは「帰って来まして、7年ぐらい経って、(中西さんが)お客さんで来てました。“元気で良い子だな”と思ったみたいです」と振り返る。

常連客だった中西さんが一目惚れし、20年前に結婚。

その頃、一恵さんの父・庸義さんがお店を引退することになり、中西さんが「厨房で調理をするのが一恵だけになってしまう」「俺も一緒に店を支えるよ!」と決断する。

20年以上勤めた会社を辞め、料理の道に入ることを決意した。

植野さんは「いきなりお店に入るのは大変だったんじゃないですか?」と疑問をぶつける。

中西さんは「初めはレシピも全て分からないので表を作って厨房に貼って、あとは手際の勉強をしていました」と苦労を明かす。

素人同然で飛び込んだ料理の道。しかし、持ち前の行動力を発揮して閃いたアイデアを次々と実践。

中西さんが設計した餃子のキャベツの水切り専用マシン
中西さんが設計した餃子のキャベツの水切り専用マシン

まずは、鉄鋼会社の技術マンだった頃の経験を生かし、餃子のキャベツの水切り専用マシンを自ら設計する。

これによりキャベツの水分を簡単にしっかり絞ることができ、よりおいしい餃子が完成した。

さらに中西さんは「何か話題になるメニューを考えて店を有名にできないかな」と悩み、そこで考案したのが「タワーかた焼きそば」。

中西さんは「沼津港で“かき揚げタワー”があったんです。あれを見て太陸でも全国区並の物を作ろうと思って、インスタ映えするやつを考えた。ちょうど15年前に」と明かした。この作戦は成功し、連日お客さんが押し寄せる人気店となった。

本日のお目当ては、太陸の「タワーかた焼きそば」。

一口食べた植野さんは「麺がしっかり揚げてあり、餡との相性がとても良い」と絶賛。 

太陸「タワーかた焼きそば」のレシピを紹介する。