原爆投下から73年。
当時13歳だった妹を原爆で失った細川浩史さんは90歳になった今も語り部活動を続けています。

その細川さんが今回、最愛の妹の被爆遺品を原爆資料館に寄贈しました。

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被爆当時細川さんは17歳。
爆心地から1.3キロの広島市中区東白島町の旧広島逓信局に勤めていました。
当時の建物の一部が今も保存されており、原爆投下直後の生々しい様子を語り継ぎます。

【細川浩史さん】
「みんな血まみれですからね。血まみれの手で手すりを触って降りた。
 そこには血まみれの手形がたくさん付いていたのを今も覚えています」

一命を取り留めた細川さんが真っ先に思ったのが、妹・瑤子さんのことでした。
瑤子さんは当時13歳。今の広島皆実高校の前身、広島第一高等女学校の1年生で、太平洋戦争末期、多くの学生が軍需産業などに動員され、瑤子さんも、この日初めて建物疎開に駆り出されました。

瑤子さんは、爆心地から700メートルほどの土橋町で被爆。
全身大やけどを負い、その日の夜に息を引き取りました。
一緒にいた先生と同級生228人がほぼ即死でした。

【細川浩史さん】
「妹は自分が間もなく死ぬことをわかっていたんだと思う。息を引き取る瞬間、看病してくれた人の手を握らせてもらい、しばらくして亡くなっていった」


「悔しいですよ。僕の生涯の一番最大の悲劇」と話す細川浩史さん。

あれから73年。
残された時間を考えて、細川さんは妹・瑤子さんの被爆遺品を原爆資料館に寄贈することを決意しました。

遺品の中に瑤子の日記がありました。
女学校に入学してから亡くなる前日の8月5日まで瑤子さんが書き続けた貴重な日記帳です。

【細川浩史さん】
「日記には僕のことも時々出てきます。『駅で偶然僕と出あった』とか、久しぶりにお兄ちゃんに会えてうれしい」と…。
兄を慕う少女の素直な気持ちが散りばめられています。

1996年、今から22年前に瑤子さんの日記は出版され、その後英訳もされ世界で反響を呼びました。
これを機に細川さんは体験談を語るようになったのです。

【細川浩史さん】
「しばらく日記を読んでいるうちに、瑤子が目の前に現れてきて対話をしているような不思議な気持ちになるんです。この日記帳は僕にとってひとつの支えだったのかもしれません」

この日、原爆資料館を訪れた細川さんは瑤子さんの制服や防空頭巾、弁当箱など5点の遺品を寄贈しました。

「これが戦争の結末だと、自分のことと受け止めてほしいと、妹・瑤子が訴えていると思う」
しかし、寄贈する品々の中に、瑤子さんの日記帳はありませんでした。


【細川浩史さん】
「日記帳は僕にとって妹の分身。肉親を失った者、愛する者を失った悲しみは生涯消えることはないと思う。この日記帳は、いずれ僕の終末のときがきたら寄贈しようかなと思う。僕が生きている限りは大切にしてやろうと思って…」手放せなかった日記帳。
細川さんにとって、瑤子さんは今もあの日のままです。

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http://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000000875.html