毎年6月23日は「慰霊の日」。沖縄県糸満市にある平和祈念公園では
「全戦没者追悼式」が行われる。
住民を巻き込んだ激しい地上戦が行われた73年前の沖縄戦。特に南部に追い詰められた多くの住民が犠牲になった。こうした中、ある地域では井戸に繋がる壕を掘り戦場を生き延びた。今回その井戸の壕の内部に初めて沖縄テレビのカメラが入った。

沖縄戦の最中に撮影された映像には、何十人もの住民が井戸の中から助け出される様子が映っていた。
多くの井戸がある糸満市座波。いまも一部は散水などに利用されている。

座波の字史の編纂に取り組んでいる大城隆盛(りゅうせい)さん(77)には、かねてから確かめたいことがあった。

今回、カメラが入る井戸の壕は、大城さんが3歳か4歳の時に入っていた井戸の壕だという。
しかし、大城さんには当時の記憶がほとんどない。
この奥で、当時どう過ごしたのか?
今回の調査を通して確認し、記録に残したいのだという。

大城さんが自らカメラを吊るして撮影したという井戸の写真には、横穴が写っていた。

大城隆盛さん--
「戦争を体験した方々のみが分かるのであって、いま我々が何もしなければ『この洞穴って何だっただろう』わからないままになってしまう」

今回、地域の戦争記録を残すため沖縄県・糸満市座波の井戸に繋がる豪壕の内部を調べるため協力を求めたのは、「玉泉洞」を発見したことで知られる沖縄鍾乳洞協会の山内平三郎さん。

調査は、避難した住民の証言がある2か所の井戸に入ることになった。

これまで詳細が明らかではなかった井戸の壕。
初の調査に住民の関心も高まる。
固唾を飲んで住民が見守る中、ついにカメラが壕の奥に入った。

琉球石灰岩が掘られた壕は、人がなんとか座れるほどの高さだった。
奥には釜、パイプ等様々な生活道具が残されていた。

数世帯の住民が入ったという内部には、炭化した麦など食糧の痕跡も残されていた。

炭化した麦の痕跡

山内さんが測量し、内部の構造がはっきりした。
壕は井戸から、この畑の地下方向に伸びていて付近には出入り口があったとみられている。

今回、調査する座波の井戸はもう1か所。
井戸に避難した当時、12歳だった大城啓一さん(85)が見守る。
こちらの井戸は深さ8メートルほどで壕は、一か所目よりも広いようだ。
当時20~30人くらいの人々が避難していたと大城さんは語る。

先に進もうとしたその時、調査隊はあるものを見つけた。
アメリカ製の手りゅう弾が2つ…

戦後になり、壕の中に残された使えそうな日用品は、住民が壕から運び出したとされている。
今回のアメリカ製の手りゅう弾も、その時に持ち込まれたものと推測された。爆発の恐れはないことから調査は継続された。
この豪の中からは、裁縫道具など様々な日用品が次々と見つかった。

この井戸の豪に人々が避難していた当時、日本軍が首里の司令部を放棄し南部に撤退したことで、そこに避難していた住民は区別なく戦闘に巻き込まれ、地上では地獄の様相を呈し始めていた。

この壕に住民が息をひそめていたのは6月に入ってからの10日間ほど。
当時の様子を大城さんはこう語る。
「こっちは1日で部落は木も全部焼き払われた。与座岳よ、真っ赤だったよ。あっちはもう草も何もなかった…」

追い詰められた日本軍が最後の防衛線として抵抗した与座岳。
アメリカ軍が容赦ない砲撃を浴びせていた。
そのすぐ側で座波の住民は暗闇の中、鉄の嵐が止むのを待ち続けていた。
しかし、ほどなく井戸の住民たちは発見されてしまう。

大城啓一さん--
「(沖縄)県系2世という人がね、心配するな、出てきなさい。
殺さないからってね、私たちも捕虜にされたんだよ・・・」

戦後、捕虜から解放され収容所から戻った座波の住民たち。
戦場となった集落内から無数の遺骨を拾い集め、慰霊塔を建立した。

軍人よりも住民の犠牲者が多かった南部町村。
一方、糸満市のまとめに照らすと座波の井戸の壕に留った住民の犠牲は少なかったとみられている。

今回の調査を受け大城隆盛さんはこう語る。
「我々、戦前生まれが生きている間に、今後のために我々難儀してもいいから是非、早く(字史を)完成させたいと思います」

73年の歳月を経て鮮明に映し出された戦争の記憶。

地域に眠る戦世の体験をわたしたちが受け継ぐ時間はまだ残されています。 
 (OTV プライムニュースイブニング 6月20日放送分より)

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https://www.fnn.jp/posts/00394767CX

慰霊の日「沖縄全戦没者追悼式」を生中継
6月23日(土)12時開始予定
FNN PRIMEオンライン 
https://www.fnn.jp/live