30年引き継がれる「碑前祭」

広島市内にある幟町(のぼりちょう)中学校の敷地内に「折り鶴の願いをここに」と刻まれた一つの石碑がある。この中学の教室内では平和公園内に設置された「原爆の子の碑」の前で毎年行われる「碑前祭」の準備の為の「折り鶴」作りが行われていた。

この「碑前祭」、運営はすべて生徒たちの手で行われ、今年で30回目を迎えた。
広島市内から小中学生およそ300人が集まった。

参加した生徒たちは、それぞれ、自分たちが学んだ「平和」について語り合う。

「僕たちの学校では3年生が6月に被爆体験者の話を聞きました」

「私たちの中学では全学年が4月、8月、9月に平和学習を行っています」

「人と人とのつながりも平和への第一歩です。そのことを私たちが忘れないように平和を守り続けていきましょう。」

参加した生徒は
「広島に生まれて、広島として世界に平和を発信していくことが、まず自分たちのできる第一歩」と、話す。

広島で脈々と受け継がれる「平和」への思い。このような「折り鶴」に込められた思いに共感し、平和公園には国内外から年間およそ1000万羽の折り鶴が寄せられている。

きっかけはクラスメートの死

広島の平和公園内にたたずむ「原爆の子の像」
少女が「折り鶴」を高く掲げている特徴的なデザインだ。

この像にはモデルとなった少女がいた。佐々木禎子さん。
2歳の時に爆心地から1.6キロの自宅で被爆し12歳の時に白血病で亡くなった。

佐々木禎子さんの母校、広島市中区にある幟町(のぼりちょう)小学校。このほど小学校の会議室として使われていた一室から貴重な写真が入った木箱が発見された。幟町周辺で戦時中、子供たちが畑作業をする様子や、戦後の焼け野原と化した中での青空教室の様子などが貴重な歴史が記録された資料の数々だ。

これらの貴重な写真と共に発見されたのが、別の棚に雑多におさめられていた古い卒業アルバム。
そのアルバムの中に、「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんが写っていた。

クラスで一番足が速く、活発だったという禎子さん。6年生になり突然、白血病を発症した。
そんな禎子さんが生きる望みを託して病床で折り続けたのが「千羽鶴」だったのだ。
しかし、1955年10月25日、禎子さんは祈りもむなしく永遠の眠りについた。

禎子さんの死を悼み6年竹組の同級生たちは「原爆の子の像」設置のための募金を呼びかけ、その活動の輪は全国に広がっていった。
募金を始めてから2年後、1958年の5月5日の「こどもの日」に「原爆の子の像」が建立されたのだ。

あれから60年たった今年4月、禎子さんの母校には同級生、竹組の仲間たちが集まっていた。
仲間の一人が形見として大切にしていた禎子さんの「折り鶴」を学校に寄贈しに来たのだ。

禎子さんの親友だった川野登美子さんは、鶴を折る禎子さんの姿が今も目に焼き付いていると話す。

鶴は私たちにとっては悲しい思い出です。だって鶴を禎ちゃんが折り始めたのは、もう末期の頃でしたから、その時には、赤い斑点がいっぱいできていましたから…その時に鶴を折っている禎ちゃんの姿が、今も頭から離れなくて…。

自身も爆心地から2.3キロで被爆し兄を原爆で失った川野さん。
母校の子供たちに「原爆の子の像」設立の経緯と、親友を失った悲しみを語り継いでいる。

何で禎ちゃんが死なんとならんの?何も悪いことせんかったのに…、なんでこんなむごい目にあわにゃならんの?私たちの悲しみは、もう怒りに変わっていました…

今年5月 禎子さんの母校、幟町小学校では、貴重な写真の数々を展示する「資料室」が完成していた。
およそ100点の展示物の中には禎子さん自身が折った2羽の折り鶴や、新たに見つかった卒業アルバムも展示されることになった。

資料室を訪れた子供たちは、同じ年頃で亡くなった一人の少女の姿を通し「平和」とは何か、それぞれ向き合っていた。
禎子さんの無念な思い、折り鶴に込めた平和への祈りは広島で今も子供たちへ受け継がれている。
幟町小学校の資料室は事前予約制で毎週金曜日の午前中に一般公開されている。

(TSSプライムニュース 7月31日放送分より)