(ファイブワンファクトリー、工場長の岩下信之)
大阪府枚方市。長尾駅から住宅街の中を5分ほど車で駆け抜けると、白い建物があった。ファイブワンファクトリーの工場だ。
ファイブワン・ファクトリー(株)は1964年創業の重衣料メーカーだ。主力の男性用スーツ、ジャケット、トラウザーズ、コートの他、女性用の重衣料の製造も行っている。三陽商会のポール・スチュアートなどのブランドや、リデアカンパニー、SHIPSなどの大手セレクトショップなどと取引をしてきた。多くの著名人とファイブワン工業が開発した型紙と製造法は、日本のクラシコイタリアの先駆けとなった。「FIVEONE」の名で直営店舗を運営しており、オーダースーツやジャケットのMTM(Made To Measure)を顧客から直接受注している。
ファクトリーの正面玄関には「FIVEONE FACTORY」の大きなロゴが掲げられている。中に案内されると次の作業工程を待つスーツの部品が廊下に所狭しと並べられている。その1着1着に小さな紙が貼り付けてあるのだが、それは製造指示書なのだという。
廊下を抜けた先には巨大な作業室があり、ここで何十人もの職人が生地を切ったり、ミシンをかけたり、アイロンを当てたりしているのが見える。印象的だったのは若者から年配者まで多様な人々が働いていることだった。
コロナ禍で、仕事がない。若手が辞めた
「コロナが始まった最初の1年ほどは20~30代くらいの若い従業員が毎月辞めていきましたね」。工場長の岩下信之が、言葉を選びながらそう教えてくれた。
「稼働日なのに、仕事がない。仕事があった日も15時に終わる。そうするとみんな不安になるんだよ。2年で20名ほどが辞めた。その時は本当に心がボロボロだった。でも彼らもいいタイミングだったと思うし、会社としても止めるだけの安心材料がなかった。それでも逆に今、残ってくれた子たちは本気の子ですよ」
このコロナ禍の3年間を苦々しい表情で語る岩下。しかし決して悪いところばかりではなかったと言う。
「おかげで見たくなかったことや変えなきゃいけないことがはっきりと分かって、ビジョンがより明確になりつつある。会社を鍛えるいい機会でした。でもコロナがあったから困難に直面したわけではなく、もともとファイブワン自体がずっと困難続きなんですよ」
岩下がそう言うように、「ファイブワンファクトリー」のこれまでの歴史は決して順風満帆というわけではなく、波乱に満ちている。
「下請け」の苦難と、クラシコイタリアの開発
1964年に大阪枚方市で創業した同社だが、今から約30年前、ある大手クライアントとの取引が徐々に減ってきたことによって経営難に陥る。この状況に危機感を感じた当時の営業マンたちは奔走し、いくつかの新しい取引先を見つけてくることで乗り越える。
また、ファイブワンの代表的な商品であるGFシリーズ(※)が誕生したのもこの時だった。
※GFシリーズ: イタリアンクラシコのジャケットを研究し、ファイブワンオリジナルとして作成した型紙第一号。2022年現在でも使用しており、前ボタンの数でシングル5種、ダブル2種とバリエーションも最多。
当時の専務と常務が、ある取引先からイタリアのジャケットを見せてもらったことが発端だ。その軽さと着心地の良さに「日本の服とまるで違う」と心底感動したことがきっかけで、自社での研究が始まる。当時はパターン(型紙)を起こして企画をしたことがなかったファイブワンだったが、東京のメーカー出身のイタリア通が入社したことをきっかけに、初めての自社開発商品として誕生させたのがGFシリーズだった。
「このGFシリーズがうちの企画商品の根本にあって、ここから様々なシリーズに広がっていくわけです」
岩下が言うように、ここからファイブワンオリジナルのパターン開発が始まる。それとともに新たな顧客を獲得し、危機的な経営状況を脱していくことになる。
「海外からのオファーがどんどん来ている」
困難な状況を常にチャンスに変えて新たな道を作ってきたファイブワンだが、コロナ禍という新たな難局にどう立ち向かおうと考えているのだろうか。
「コロナでスーツの需要がなくなるって言われて僕らも不安を煽られるんですが、僕らとしては一流の洒落者と、企業人の上層部をターゲットにしているので、その人たちからスーツが消えるということはないだろうと思っています。ただ、将来的に社交場におけるスタイルの変化によって、人がスーツから離れていくというのは今後もあり得る話です」
現状を冷静に分析しながらも、10年、20年後の人々がスーツをどのように捉えて着ていくのか興味深く見ているという。岩下は続ける。
「今年の5月からインスタのフォロワー数が1000人から1万人以上になりました。ほとんど海外の人たちです。そして彼らから、特にアメリカですが、オファーがどんどん来るんですよ。うちは香港に店を出しているので、ここを窓口にして、更に海外の新しい市場を開拓していこうと思っています」
コロナ禍がもたらした生活様式の変化、国内の人口減少、それに伴う縮小する日本市場を見た時に、国外に広がる市場に大きなチャンスがあると見るのは当然のことだろう。そこでファイブワンが求められる存在になるかどうかは「今から3年以内に分かる」という。
「この現状をポジティブに捉えて、今やれることをとことんやるだけです」と迷いのない晴れやかな表情で話す岩下。約70人いる従業員を取りまとめ、現場を取り仕切る工場長としての強い意志を感じずにはいられなかった。
(「最近は北米からのオファーが多い」と話す岩下)
漬物屋の息子
岩下が育ったのはファイブワン創業の地と同じ大阪枚方市。実家の生業は漬物屋だ。
小学校時代から漬物の仕込みの手伝いにはじまり、そろばんを持って店に立ち、漬物を売る毎日だった。時代はバブル真っ盛りということもあって、店に立っているだけで飛ぶように売れたという。20歳くらいまでそんな風に実家の手伝いをしていた岩下は小学生の時に、父親にこう言われた。
「お前がやっていることは言われたものを入れて売っているだけや。一流の営業マンは買いたくない人にも売るんや。お前はそれをちゃんと理解してやれ」
それまで漫然と言われたように売っていた岩下だったが、父親の一言によって「商売」をする視点をガラリと変えられ、俄然「売る」ということが楽しくなってきた。
「それからですよね、商品を売るっていうことがすごく創造性とパワーが必要なんやなと実感し始めたのは。それを小さい頃から教えてもらってたというのはとても有り難かったです」
そうやって「商売」の最前線に幼い頃から立ち続け、売ることの楽しさを実感した岩下が選んだ進路は実家の漬物屋ではなく「服」だった。
「本当は日本史を学びたくて大学受験したんですが失敗。じゃあ、二番目に好きなことをやろうということで音楽と服だったんですが、服の方が食っていけるかなと思って専門学校に入りました」
「今売れているものを真似ろ」に反発して、退職
進学先は大阪にある上田安子服飾専門学校だった。しかし受験失敗して入学した自分とは違って、周りは根っからのファッション好きの同級生ばかり。そんな彼らと比較して劣等感を持ったという。
だがその劣等感をバネにして2年時には選抜クラスへ合格。更には学内で開かれるコンペで3度も賞を獲得する。
これで何とか社会に出て働いていけるのではないかと思い、決めた就職先はあるアパレルメーカだった。しかしここを2ヶ月で退職してしまう。
「デザインとか企画とかやらせてもらえたんですけど、熱量が違うと思ってしまったんですよね。デザインや企画を練る時に、雑誌を数冊持ってきて今売れているものを真似るような仕事の仕方ってどうなのかなと」
トレンドとクラフトマンシップのバランス感覚が今は分かっているというが、当時20代半ばの岩下にはそれが決定的な温度差として感じられた。
退職後はアルバイトをしたり、専門学校時代の先生から呼ばれてパリコレ出展のための手伝いをしたりして食い繋いだ。その時に胸に灯ったのはやはり「縫製が好き」だという想いだった。もう一度チャレンジしてみようと思い、大阪は堺のシャツ工場に勤める。ここで2年間、裁断と縫製を徹底的に学び、シャツを作れるまでになる。しかし、その当時シャツの工賃は一枚およそ1300円ほど。これでは将来家族を養っていくことはおろか、独立することも不可能だ。さてこれからどうしていくべきかと悩んでいた時のことだった。
工場はどうあるべきか、考えた
専門学校の時に買ったあるメンズ雑誌を休日にたまたま読んでいた岩下はそこにファイブワンの記事を見つける。
それまで岩下はスーツに馴染みもなく、着たこともほとんどなかったというが、ファイブワンの所在地を見ると大阪・枚方の「既製服団地」と書いてある。枚方は岩下が育った地元だ。だが、そこに既製服団地と呼ばれるスーツ製造企業が集まる場所があることなど知らなかった。
「ちょうどその当時、工場とはどうあるべきか、どうやっていくべきなのかを考えていた時期でもあったので、遊びに行ってもいいですか?って電話したんですよ。そしたらその当時の「ファイブワン工業」の専務と常務がお会いしてくれて話もさせてもらって、工場見学もさせてもらいました」
行動する中で悩みを打破していこうとする岩下の前向きな姿勢もさることながら、見ず知らずの若者の突然の申し出を断らなかったファイブワンもまた器が大きい。岩下は翌日再び電話をかける。
「どうしてもここで働かせてほしいと言いました。考え方も素晴らしいし、やっていることも楽しそうやし、なんせ一着何万円ももらえる仕事に魅力を感じたんです」
何とも向こう見ずなこのオファーを当時の専務は面白がってくれて、岩下は晴れてファイブワン工業に入社を果たすことになる。
そしてここから岩下は怒涛のように働き始める。
当時ファイブワン工業に在籍している若手は岩下を含めて4人。ほとんどが自分よりもずっと年上のベテラン職人ばかりで大変厳しかった。
漬物屋の息子として店番しながら培った、相手の求めていることを瞬時に理解できる能力を活かして厳しい職人と打ち解けた。岩下は、技術も知識もないスーツ作りの工程を一から学んでいった。
また、残業のできないパートの方の仕事を定時後に全部引き受けた。そうすることで信頼関係が生まれ、互いに仕事がしやすくなるばかりか、岩下には技術が手に入るという一石二鳥のメリットもあった。
それだけではない。ストライキ交渉の仲介役を買って出たり、従業員トラブルを解決したりと、現場の最前線に立って調整する役割も率先して引き受けた。
そうやって人と人の間に立って、がむしゃらに働き、技術を学んでいた岩下が入社2年目に配属された部署が営業部だった。
「もうこれが嫌で嫌でしょうがなかったんですよ。やっぱり僕は縫いたい、作りたいわけですよ。それでもう辞めて、本場イタリアで修行しようと思って自費で行って、サルト(仕立て屋)を見て回ったんですよ」
そこで受けた印象は、世界は服でこんなにも盛り上がっているのだなということだった。しかし、就職先は簡単には見つからなかった。
そんな時だった。ミラノを訪れていた岩下はリデアカンパニー創業者の田島淳滋と偶然すれ違う。直接面識はなかったが、ファイブワン工業を時々訪問しては厳しく指示を出す田島の姿を見ていたから、岩下は一方的に田島のことを知っていた。
田島がグリーンのスーツを着て、堂々とミラノの街を歩く姿を見て、日本人でもこんなにお洒落で絵になるのかと衝撃を受ける。
「そこで思うわけです。この人みたいな人間になるには、こんなに小さいことで悩んでいたらダメだと。まずは自分に与えられたことをきっちりできる人間になろう。縫いたいんだったら、週末の休みを使ってやればいい」
この田島との一瞬のすれ違いが岩下の考えを大きく変えたばかりか、のちに田島と火花の散るような刺激的で緊張感のある仕事を共にすることになるとは、当時の岩下が知る由もなかった。いつからか、田島は岩下にとって「僕の最も尊敬する人です」と言ってはばからないほどの存在になった。
様々な人間に支えられ、模索しながら技術と知見を高め、ファイブワンファクトリーをまとめる工場長になった今も大切にしていることがある。
それは技術力と企画力をいかに高め続けられるか、だという。
企画力を鍛え、クライアントと対等に付き合う
「下請けと言われても構わないんですが、工場もクライアントに対して言いたいことを言って対等に付き合える関係性であることが、いいもの作りをする上で大切なんです。我々は確かな技術を磨いて、良い企画を提案できなければならないと思っています」
そのために営業部門や全国にある直営店からのフィードバックは重要だという。
実際のところどのような関係なのだろうか。東京・銀座本店店長になって約2年弱という泉敬人に話を聞いた。
「基本的なスーツのパターンの見直しなどはないのですが、感度の高いお客様の心を捉えるためには細部にこだわらないと売れない。だからこういうディテールにした方がいいとか、デザインのオプションを増やした方がいいとか、そういう現場の生の声はその都度伝えるようにしています」
そう言いながら「ただし」と付け加えて泉は話を続ける。
(FIVE ONE銀座店・店長の泉敬人)
ピッチタイムもノルマも設けない。それらは創造性を奪う
「売れるものだけを売りたいわけではないんです。やっぱり、自分が売りたいと思うもの、銀座店にふさわしいと思うものを僕は売りたい」
顧客の要望に加えて、そうした店舗スタッフ側の想いに対して工場としてはどのように受け止めているのだろうか。岩下はこう話す。
「我々としては泉さん達が『売りたい!』と思ったものを作れるかということを大事にしています。そしてその時その時で考えて、企画してやりたいと思ったことをその時代にやればいいと思っています。やらなくて後悔するよりはやったほうがいいですよ」
力を込めてそう話す一方、現場オペレーターの自由度と思考力を奪うシステムになっては「服が縮こまる」と独特の表現で言う岩下。
「生産性を上げるためにピッチタイムを設けるとか、過剰なノルマを設定するとか、管理すればするほどに創造性や自由から離れていくんです。だからうちでは敢えて手を止めて考えろ、流れ作業でやるなと言っています」
仮に徹底した管理を行って黒字化しても、それは『いい工場』ではないと岩下は言う。
オペレーターの創造性を奪わず、商品クオリティを担保しながら、利益が出ることが理想だが、そのシステムを作るためには加工賃を上げることが必須だ。そうすれば利益は倍増し、従業員の給料も上がる。しかし加工賃の値上げは取引先がそう簡単に許さない。
だから5年以内に量産をやめ、直営店でのシェアを50%以上にし、厳選した数社のメーカーと付き合う経営に特化していかなければならないと、今後の目標について岩下は静かに語った。
一方、泉はこう話す。
「加工賃が上がれば、それは販売価格へと跳ね返ってきます。ものがいいだけのものは世の中に山ほどある中で、お客様にファイブワンの商品を選んでいただき、販売価格に対して納得してもらうにはそれなりの理由や価値がないと買って頂けません」
だからこそ、泉たち顧客の最前線に立つ者が、店舗作りを含めたイメージ構築とストーリーテリングをどれだけできるかを常に考えている、と語る。
頂点としてのビスポークテーラーを支えたい
最後に2人の話は業界全体のことに及ぶ。
「本物の超一流のビスポークテーラーがなくなっていくことにとても危機感を抱いています」と言うのは岩下だ。「ビスポークテーラー」はオーダーメイドのみを行う一流の仕立て屋のことで、これを頂点としてファイブワンなどのメーカー(Made To Measure:MTM)がある。ビスポークテーラーがピラミッドの頂点に存在することで、岩下たち職人は技術を磨き、もっと良い服を作ろうという気持ちを奮い立たせられるという。
しかし時代とともに人々の装いが変化し、顧客の意識も様変わりする中で、業界の構造も崩れようとしている。泉も、同じように危機感を抱きながらこう話す。
「頂点にいるビスポークテーラーが生き残っていく為にも、我々が適正価格で売らなければいけないと思うんです。そしてなぜビスポークとこの価格差があるのかということもお客様に理解してもらわなければいけません」
このようにビスポークを支え、業界全体に健全な風が流れることで、技術の向上はもちろん、顧客に応じた商品の提供が適正に行われることにつながるのだ。
だからこそ自分のところだけ利益出たらいいという利己的な態度ではいけないと話す岩下は最後にこう付け加えた。
「10年、20年後の先を見据えて、種まきをし続けていかなきゃいけないんです。それはどの業種でも同じなんでしょうね」
この仕事を愛してやまない男が導く未来はどんなものだろう。
その視線はずっと先を見据えていた。
行動者ストーリー詳細へ
PR TIMES STORYトップへ