ノルウェーで食べた鯨の味

写真 クジラの竜田揚げ イメージ
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既に還暦を迎えた筆者と同世代の関東出身者は鯨肉と言われると小学校の給食を真っ先に思い出すのではないか。半世紀も前のことだが、肉の塊にお目に掛かる事などなかなか無かった時代、月に一度程のペースで学校の給食に出てきた鯨の竜田揚げは大人気のメニューであった。これを先割れスプーンで食べるのに結構往生したのも懐かしい思い出である。しかし、高学年になった頃からだったか、中学に進んだ頃からだったか、世の中が豊かになるに連れ、給食に鯨肉が出てくる事は無くなっていたのが現実である。

横道に逸れるが、給食と言うともう一つ忘れられない思い出がある。それは脱脂粉乳。その臭かったこと、不味かったこと。こちらは筆者には悪夢のような記憶である。

本題に戻る。次に思い出す鯨肉の記憶は小学校時代から20年余も時代を下る。我が家や周辺では日常的に鯨肉を食べる習慣がなかった故、年月が飛ぶのである。所も北欧、ノルウェーに一挙に移る。 

その頃、ロンドン特派員だった筆者は1994年にノルウェーで開催されたリレハンメル冬季五輪の取材に携わった。帰路、首都のオスロで日本食店に立ち寄ったところ、壁に貼られた短冊に尾の身刺身とあったのに気付いた。尾の身が鯨肉の最高級部位で、日本で非常に高価な事は知っていたが、オスロのその店では邦貨にして当時1,500円程だった。試しに注文してみた。ノルウェーは、その前年に商業捕鯨を再開していた。 

出てきたのは結構なサイズの中皿にびっしり敷き詰められた赤身の刺身。まず、その量に驚いた。そして、筆者自身は初めて食したのだが、その味に全員驚愕した。詳しく書いても顰蹙を買うばかりに違いないので、ここから我々は思わずもう一皿追加注文し綺麗にたいらげたとだけ記しておきたい。 

写真:鯨の刺身 イメージ
写真:鯨の刺身 イメージ

欧米人から見た日本の“捕鯨”

IWCの事務局があるイギリスや南氷洋に近いオーストラリアなど英連邦の国の連中と付き合うと、親しくなる過程で捕鯨の話をせざるを得ないことが何度もあった。我々がニュースの世界で飯を食っていたせいもあってか、国際捕鯨委員会の総会が開催される度に議論を吹っかけられる…という余り愉快で無いことが起きたのである。念の為お断りしておくが、これらは全て筆者の個人的経験である。 

特派員として紛争や災害・事故、政変、マーケットのクラッシュなど様々な事象を長年取材したが、捕鯨問題を担当した経験は筆者には一度も無い。関連でグリーン・ピースなど活動家と接触したことも全くなかった。それでも、親しくなった欧米人から捕鯨の話を持ち出されてしまうことが珍しくなかったのである。

その中で一番強硬だったのが、オーストラリア人のカメラマンであった。 

「鯨は食料ではない!インテリジェントな高等生物で守るべき存在だ。」

「調査捕鯨なんてまやかし、すぐにでも止めるべきだ。」

「日本人はもう鯨を食べなくても生きていける!」

などと結構な口吻だった。 

当然、当方は「鯨を食べてはいけないと一体誰が決めたのだ?」

「IWCの科学委員会でさえミンク鯨など一部の種類は絶滅の心配が無いと言っている。
 それを捕るなとはどういう科学的根拠があるのだ?」

「ノルウェーやアイスランドが良くて、何故日本が駄目なのだ?
 日本にも一部地域だが何百年もの鯨食文化があるのだぞ。」

「君達は一方的に自分達の価値観を押し付ける。そんなものは受け入れられない。」

などと反論した。だが、彼は馬耳東風で「鯨の殺戮は止めるべきだ。」と主張してやまなかった。

豪州人はカンガルーは食べてもOK、なぜ鯨は?

筆者が「君らはカンガルーをどんどん殺し、人間が食べたり、ペットフードにして売っているではないか?それは良いのか?」と問い詰めても「カンガルーは害獣だ。」と断言して平然としていた。

これには呆れてモノも言えなかった。

アイルランド人は鯨食文化そのものに対する批判はしなかったが、「絶滅危惧種は保護すべきだ。」とだけ繰り返した。どんな生き物でも絶滅の危機にある種はもちろん保護されるべきである。それに異論は無い。しかし、鯨は鯨という一種しか存在しないという前提でしか彼は議論しなかった。

少し冷静なイギリス人は「鯨は我々にとっては食料ではない。馬も犬も食料ではない。もちろん犬を食べる習慣がアジアの一部に今も残ることは許しがたい。ヨーロッパでもイタリアやフランスでは馬の肉を食べるが、我々には無い習慣で嫌悪を感じる。しかし、日本のような経済大国が今も鯨を捕り食べることには特に強い抵抗を感じる。受け入れ難い。」と言っていた。

「君達は牛を食べないヒンズー教徒が君達にロースト・ビーフを食べるなと言ったらその通りにするのか?豚肉を食べないユダヤ人やアラブ人がベーコンを食べるなと言ったらどうするのだ?」と、反論したこともあるが、「それは文化の違いだ。」で終わりだった。

鯨食文化も文化の違いである。しかし、彼らがそれを受け入れる気配は無かった。

「日本のような世界第2位(当時)の経済大国が鯨を食べる必要はもう無い。」というのがほぼ全員に共通する意見でもあった。

念のため申し添えるが、ここに登場した連中とは大変仲良くしていた。仕事上も仕事抜きでも密な付き合いがあった。そして、今もそれは続いている。大きな意見の相違はこの捕鯨問題以外にはまず無かったのだが、親しかったからこそ、彼らは本音をぶつけてきたのだと筆者は理解している。一部の主張は身勝手極まりなく、彼ら自身もそれを自覚している節はあった。そして、彼らは教条的な環境主義者でも無かった。が、この問題に関してはずっと平行線であった。 

「残酷」と「非人道的」の違い

アメリカでは少し事情が違った。
ワシントン駐在中に付き合いのあったアメリカ人は、日本の文化や国民感情にも通じている人が多かったせいもあるのだろう。捕鯨問題でそれほど立ち入った議論にはならなかった。

日本の立場に理解を示す友人・知人はまず居なかったが、彼らは「アメリカ政府は捕鯨に反対の立場だ。」と冷静に繰り返すのが常だった。この問題で筆者と論争しても何も生み出さないのをよく知っていた。

一度、小学校から帰宅した子供に「学校でお友達に言われたのだけれど、日本は鯨を食べるの?」と尋ねられた記憶がある。「また訊かれたら、私は知らないし、私は食べない。」と応えなさいと教えたが、それきりだった。

その後、日本語も堪能なアメリカ人外交官に一度、関連用語を巡って談判をしたことがある。
太地町のイルカ漁を、我々から見れば悪意を持って、描いた映画が話題になった時期と相前後する。 

その頃、アメリカのどこかの政府機関が日本の一部の鯨・イルカ漁を、日本語にすると“非人道的”以外の訳語が無い言葉=inhumaneを使って非難したのである。

個人的な勉強不足が原因かもしれないのだが、筆者はかねがねこのinhumaneという表現に疑問を持っていた。その理由は、inhumane=非人道的と言われてしまうと、ナチスのホロコーストやサダム・フセインのクルド族虐殺など人道上の大罪を筆者は想起してしまうからで、その言葉が日本捕鯨やイルカ漁に対しても使われるのには大いなる違和感ばかりでなく“生理的反発”さえ感じていたからである。

そこで、親しくしていた外交官に尋ねてみた。

「inhumaneは人間に対してだけではなく、動物の扱いが悪い場合にも英語では使われるのか?」

「そうだ。例えば牛や豚を処理するときに残虐なやり方をするとinhumaneと非難される。
 それが一般的な使い方だ。」

「それって、もしかするとcruel=残酷と同じ意味か?」

「ほぼ同じだ。」

「しかし、inhumaneを日本語に訳すと非人道的になるのは知っているよね?」

「知っている。」

「日本語で非人道的と言うと、ホロコースト並みの極悪非道のイメージになってしまうのを理解している?私個人は鯨・イルカ漁をinhumaneと非難される度に、ふざけるな!そこまで悪く無いぞ!と反発の気持が沸き起こるのだが、cruelに代えることはできないのか?」

「そうなのか、、、検討する。」

その後、程なくして、当該ウェブ・ページのinhumaneはcruelに代わっていたと朧気ながら記憶している。

余談になるが、調べてみたら、フォアグラを作るために鵞鳥だか家鴨だかに強制給餌をすることも、英語ではinhumaneと評されることも知った。語感は全く異なるようだ。

このエピソード自体は単なるボタンの掛け違えレベルの話と言えばそれまで。だが、鯨肉食のみならず、動植物に対する人の向き合い方を巡る文化の相違は根深く、相互理解が非常に難しいことを示すエピソードでもある。もちろん彼らの価値観の押し付けに屈する必要は全く無い。その点で、筆者はIWCからの脱退に反対する気は毛頭ない。南氷洋での調査捕鯨を止めるという決断も特にオーストラリアやニュージーランドとの関係を一層強化する上では有用である。彼らはTPP11の主要メンバーだし、中国と様々な面で対抗していく上でも重要なパートナーだからである。沿岸での小規模捕鯨はこれまでも続けてきた。節度を持ってやるならば、今後も続けることに異論は無い。だが、少し残念なことがある。欧米各国の報道ぶりを見ると、ほぼ全ての見出しが「日本が商業捕鯨を再開へ」になってしまっているからである。 

これが、例えば「日本政府が南氷洋の調査捕鯨中止の決断・小規模伝統沿岸捕鯨のみ継続へ」

みたいな見出しになるような発表の仕方ができなかったのか、工夫はできなかったか、と考えるとちょっともったいなかったような気がしないでもないのである。やる事は同じだが、印象は全く異なるからである。
海洋の環境という面では、水温上昇はもとよりマイクロ・プラスチックを始めとする大量の漂流ゴミの問題、各地で烏賊やいわしなど資源の減少が伝えられる世界的な乱獲の問題など難問は山積している。温暖化対策ではトランプ氏の無理解が障害になるかもしれないが、こうした諸問題に各国が集中できるようなムードが一日も早く醸成されることを筆者は願って止まない。そして、世界の反捕鯨団体がその豊富な資金と人材・機材を例えば海洋ゴミの回収作業といった他のものに全面的に振り向けられるような時代が早急に来ることを願っている。

(執筆:フジテレビ 解説委員 二関吉郎)