生きた証しを刻んできた被爆者が亡くなる
2020年4月6日、長崎原爆の被爆者・内田伯(うちだ・つかさ)さんが亡くなった。90歳だった。人々の生きた証しを地図に刻み、核兵器の恐ろしさを訴え続けた内田さんの言葉には、平和への強い思いが込められていた。
この記事の画像(18枚)毎月9日、長崎市の平和祈念像の前で行われている「反核9の日座り込み」。この日は、3日前に亡くなった内田さんの死を悼み、参加者全員で黙とうを捧げた。
内田さんは、長崎市で被爆体験誌の刊行や平和教育運動を行う「長崎の証言の会」の代表委員を務めていた。
内田伯さん:
今日まで生き残った被爆者に課せられた使命は、原爆の恐ろしさと世界平和のメッセージを広く全世界に伝えること、人間の愚かさを忘れさせないようにすることにつきるのではと思います
4月6日、急性肺炎などのため、帰らぬ人となった。
1945年8月9日、内田さんは旧制・瓊浦中学4年生、15歳のときに、学徒動員先の三菱兵器大橋工場で被爆した。原爆が炸裂したのは、自宅があった長崎市松山町の上空だった。
松山町に暮らしていた123世帯、647人のうち、62.4パーセントにあたる404人が亡くなった。内田さんも、自宅にいた家族5人を失った。
内田伯さん:(2014年)
この真実を何らかの形で後世に残そうと
原爆が落とされる前、爆心地付近にはどんな人が住み、どのような生活を営んでいたのか。長崎市の職員だった内田さんは、1970年から約1年半をかけて、被爆前の松山町の地図を復元した。
一軒一軒、墓標を立てる思いで、地図に、人々の生きた証しを残していったという。
内田伯さん:
やっぱりこの町並みを見て、一瞬にして命を奪われた人、燃え尽きた人。その様子を想像してほしい。それに(地図を復元した)意味が生かされてくるのではないか
内田さんが作成に携わった爆心地周辺の復元図は、長崎市の平和公園にも設置されている。
内田さんの母校では…
長崎市立城山小学校、旧城山国民学校は、内田さんの母校だ。爆心地に近く、ここでは毎月9日に「平和祈念式」を開いている。
内田さんが亡くなった3日後の4月9日は、825回目の平和祈念式だった。
城山小学校 竹村浩明校長:
内田さんは色々な平和の取り組みをされているのですが、大きなことの1つは被爆校舎。この校舎を残す活動をした中心の方が、内田伯さんです
被爆した校舎の一部は1999年に「平和祈念館」となり、熱線を受けて焦げた木レンガや、原爆で亡くなった人たちの写真や遺品などが展示されている。
内田さんは、ガイドとしてこの場所に刻まれた思いを伝えるとともに、被爆校舎を残す活動に力を尽くしてきた。
2013年、被爆校舎は「長崎原爆遺跡」のひとつとして国の文化財に登録された。被爆の実相を物語る建物の多くが老朽化し姿を消す中、内田さんは、後世に建物を残す重要性を強調していた。
内田伯さん:
戦争に関係のない子どもたちの命まで奪ってきた。そういうことをきちんと指し示している場所でもある。(今後も)平和の大切さを語り伝えていきたいと思います
内田さんは、被爆者の声を集める市民団体「長崎の証言の会」で、1990年から30年間、代表委員を務めてきた。
活動を共にしてきた被爆者の森口貢さんは、言葉の端々から核兵器廃絶や戦争に反対する強い思いを感じ取ったと話す。
長崎の証言の会 森口貢事務局長:
大きな声を出すわけじゃないんですけど、しっかりと、引き下がっちゃいけないところは引き下がらない。憲法改憲、改定なんていうのをものすごく怒られてましたしね。また前のように戻るのかと。平和をぶっ壊すものじゃないかという思いだったんだろうと思います
なぜ日本は戦争の道を歩み、なぜ罪のない人々までもが命を奪われなければならなかったのか。その思いが、内田さんを突き動かしてきた。
内田伯さん:
核の傘の下から脱却するためにはこれから何をすればよいのか
内田さんが残してきた静かなメッセージは、私たち一人ひとりにどう行動するかを問いかけている。
(テレビ長崎)